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人は音楽なしで生きられるか
コロナ蔓延中、演奏会や音楽活動は不要不急だとさかんに言われた。確かに、1日摂取しなければ命に関わる水のような必需品とは違う。しかし、もし丸一日、音楽という音楽が全て排除されたら、どのような状況になるか想像してみる。
目覚ましは心地よいメロディはなし、あらゆるスマホ通知も音楽性を一切排除した電子音のみ、ニュースは言語だけで構成され、BGMも入らない。鼻歌を歌いながら朝食を準備することも叶わず、もちろん好きな音楽を聴きながら通勤することも出来ない。日常生活の隅々に使われているちょっとしたメロディは、言語か単音の警報音となる。どこへ行ってもBGMはなく、日常音と言語だけが飛び交う。一日の終わりにコンサートへ出かけることも、家でゆったり好きな音楽を聴くことも、歌って発散することも出来ない。映画やゲームのBGMも消え失せる。ダンスも無音だ。スポーツ大会も、エンターテイメントも盛り上がらなくなる。
ひょっとすると、人工音が少なく自然音の多い場所なら、ストレスは少ないのかもしれない。しかし都市生活から全ての音楽的要素を取り去ったら、なかなか生きづらくなるのではないか。
個人的には、家電の通知音や交通機関・公共機関で流れる音楽などは騒々しく感じるので、無くなることで快適になりそうな気がするが、音楽を聴く、演奏するという能動的な部分が失われたら、まともに生きていけなくなるように思う。何となく口ずさんでしまうことまで禁じられたら、それは拷問だ。
人間は有史以来、音楽と共に生きてきたはずで、おそらく原始的な欲求として音楽を欲する。だから、結論から言うと、音楽なしで生きていくのは不可能ではないかと思う。宇宙飛行士だって、飛行のお供に音楽を携えていくのだ。音楽はあまりにも日常に浸透し過ぎているため、それがどんな影響を与えているか改めて考えもしないが、もし全ての音楽的要素が排除されたら、その存在価値を思い知ることになるだろう。
音楽はしばしば、政治や宗教、ビジネスの道具として使われるが、効率的に万遍なく影響を及ぼすことが可能だからこそ、その力を利用するのである。人は、感情に直接訴えかける音楽に揺さぶられやすい。共通の記憶として、音楽を共有しているからであり、時にそれは、言語が入り込めない領域まで侵入することが可能なのだ。
だから音楽は良くも悪くも、人間をコントロールする。気分を高揚させ、購買意欲をかき立て、崇高な感情を喚起し、一体感を作り出し、絶望に寄り添い、慰めとなり、平安も喜びも怒りも与える。これほどまで人の心情を左右するものが、ある日突然消えたら、特に音楽を好む人でなくても、相当な影響を感じるに違いない。
音楽それ自体は形を持たないため、それが害になるときも、利益になるときも、その影響力を客観的に測ることが難しい。また、全く同じものを同じ状況で耳にしたとしても、ある人にとっては騒音に、ある人にとっては芸術に聴こえる。主観的要素が大きく、受け止め方次第でいかようにも変化する。
とは言っても、あらゆる音楽的要素を一切受け付けないという人は、少数派だろう。大部分の人間は、生まれながらに音楽を欲すると言って良いのではないか。意識するにせよ、しないにせよ、それは人間の奥の奥まで入り込んでいる欲求であり、だからこそ、日常の様々な場面に音楽が存在するのだ。
確かに、音楽に緊急性があるかと問われたら、それは否である。しかし1日1時間の睡眠不足でも、それを3ヶ月続けたら確実に健康を蝕むように、音楽を遮断することは、時間と共に精神的影響を及ぼすはずだ。そして個人差はあるにせよ、程なくフィジカルな症状も出るだろう。
自分の場合、1日でも音楽がないのは辛い。一週間の音楽なし生活となれば、廃人になりそうだ。世間一般の平均値はどの程度なのか分からないが、音楽が水と同レベルの必需品である人は、一定数いるように思う。水が肉体的に欠かせないものであるのと同様、音楽は精神を満たす水なのだ。