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5kgの所持品で
20年仕事をして気づいた。とりわけインフレが激しくなったこの数年で。富を得なければいけないという資本主義圧力は凄まじく、参加したが最後、余程の意志がないと、退会できないシステムだということだ。
住居のために、食糧のために、まともに見える身なりのために、必要と思い込まされている諸々のサービスのために、際限なく支払いを要求され、そのために働き続ける。
あるいは、働いている人=まともで信用出来る人 という地位を失わないため、働き続ける場合もある。この場合、強迫観念に駆られ、健康を害してまで仕事を続けることさえある。
そもそも本当に必要なものは、ごく僅かなのではないか、と個人的には思う。贅沢品とまではいかずとも、無くてもそれなりにやっていけるものはたくさんある。
何がどれだけ必要かは人によると思うが、個人的には、生きていくのに最低限必要な所持品は5kgくらいだ。これには理由がある。
貧乏バックパッカーであちこち歩き回っていた頃、いつも所持品全てを測って、合計5kg を超えないようにしていた。バックパック自体の重さが600g程なので、実質4kgちょっとということになる。あらゆる装飾的部分を取り外し、ペン1本に至るまで、軽いものを選んでいた。この重さが、どこへでも苦にならず、毎日背負って、長時間歩き続けられる量なのだ。
これがどのくらい少ないかというと、あまりの少量荷物故に、税関で麻薬密輸ではないかと怪しまれ、何度も徹底的に調べられたくらいだ。
しかしながら、この5kgの持ち物さえあれば、何ヶ月だろうと、とりあえず不自由なく旅が出来る。何か破損したら、その部分だけ取り替える。それに、誰かに頼めば、ちょっと借りられる物はたくさんある。逆に貸すこともある。暮らすのに最低限必要なものは、驚く程少ない。
それに比べ、普段の生活では、500kgの所持品だ。そのうちの300kgは、ピアノとその付随物だ。本来必要なものの100倍のものを所持しているなんて、正気ではないと思う。これらを維持するためだけに、身体に無理をかけ、時間を殺すように生活するのは、狂気の沙汰だと感じるようになった。
少ない所持品で暮らすのは、身軽であり、自由であり、フレキシブルだ。維持費がかからず、どこへでも移動が可能であり、しがみつくものが少なくなる。それが不安定極まりないと感じるか、資本主義の餌食にならない生き方と捉えるかは、価値観次第だと思う。
ただ、基本的には出来る限り消費をさせたい社会にあって、こんな風に消費をせず生活する人ばかりになってしまっては、マイナスだろう。
そもそも消費とは、貨幣を介したやり取りのみを言うのだろうか。物々交換やサービス交換は、どうなのだろう。
スマホが登場して以来(インターネットというよりスマホの普及のように思われる)、どんな小さなサービスも、金銭を支払って、手軽に享受するものになりつつある。以前は知り合い同士、金銭を介さず、もちつもたれつ、協力し合っていたことまで。ちょうど手の空いている人が子どもの面倒を見たり、修理が得意な人に何かを直してもらったり、たまたま居合わせた家で夕食を共にしたり、車に乗せて送ったり、ときには家に泊めたり、日常茶飯事だった。今ではこれらは皆、一大サービスとして提供されている。
結果、ますます収入が必要となり、ますます自由になる時間は減り、ますますそういったサービスに依存せざるを得なくなる。なぜなら、長時間働くということは、本来金銭とは無縁の人間関係を広げる時間が無くなるということだからだ。そしてこういった関係性の構築は、効率重視の考え方とはかけ離れたものだからだ。
ものの購入だけでなく、サービスの購入も、本来ほんの少しで済むものだったのだ。一体いつから、これ程までに、何から何まで購入しなくてはいけなくなったのだろう。
不必要なまでに消費をさせられることに、辟易してしまった。そのために、時間を金銭に変換するという、人生の時間を差し押さえられるような感覚にも。
5kgの所持品と、金銭無縁の関係性の中で生きていけるように出来ているのだ。人によっては、それが居心地が良いのだ。