#118 ジョン・バティステ『ベートーヴェン・ブルース』
ジョン・バティステ『ベートーヴェン・ブルース』
レコード会社の資料に”急遽リリース”という文言があった、ジョン・バティステの新作。しかもそれは、予想外のソロ・ピアノの作品だった。テーマは、タイトルからもわかるかと思うけれど、ベートーヴェンだ。ニューオーリンズの音楽一家に生まれたジョンは、11歳でピアノを始めて、NYのジュリアード音楽院でクラシックを学んだ。その過程でさまざまな苦悩があったことは想像に難くない。
ただ配信中のドキュメンタリー映画『アメリカン・シンフォニー』を観ると、いい恩師、ピアノの先生に恵まれたんだなとは思う。先生にベートーヴェンのレッスンを受けるジョンは、まるで18歳の生徒に戻ったような表情で、いかにクラシック音楽に真摯に向き合い続けているかがよくわかった。
そのジョンが弾くベートーヴェン。アルバムは、制作のきっかけになった『エリーゼのために』から始まる。楽譜に忠実というか、一般的なクラシックの演奏をすることはもちろん出来るはずだ。でも、『運命』でも、『月光』でも、『歓喜の歌』でも、耳馴染みのあるメロディーがいつの間にかブルース、ゴスペル調、ラグタイム風の即興演奏に変わって、自由に弾くまくったあと、また主題の名曲に戻ってくる。
その即興演奏について、ジョン自身は「ベートーヴェンと対話して、一緒に曲を共作している感覚」と言う。また、オリジナル楽曲『ダスクライト・ムーヴメント』は、ベートーヴェンにインスパイアされて書いた曲だと話し、その美しきメロディーと演奏にベートーヴェンへの愛が伝わってくる。
さらにインタビューで、「ブラック・ミュージックは、そこに生きる人が自らの境遇を表現する音楽なんだ」と語り、そのひとつがブルースと。確かに奴隷制度下で辛酸をなめる生活を送っていた黒人の間で、19世紀末に生まれたのがブルースだった。その一方で、非凡な才能に恵まれたゆえに苦難の人生を歩んだベートーヴェンの音楽にも悲嘆のブルースが感じられる。それゆえのアルバム・タイトルなわけだけれど、このアルバムはまさに”そこに生きる人の境遇から生まれた”音楽だと思う。ニューオーリンズの黒人文化のなかで育ったピアニストがヨーロッパの白人によるクラシックを奏でると、こういう演奏になり得るということ。ジョンだからこそ出来る表現なのだ。
もし、私が中学生の時にこのアルバムに出会っていたら、この苦痛な練習曲の先にはこんなに自由で、痛快で、楽しい演奏が出来る未来があるんだと、ピアノをやめなかっただろう。
服部のり子