池田晶子 何者でもない絶対自由
自分を何者かであると思うためには、その自分は何者でもないのでなければならない。
この何者でもないところの自分、何によって形成されたのでもなく、どこに属するのでもないこの絶対主観、これをこそ私は、形而上学的(メタフィジカル)な「私」と堅持し、ここからのみ認識し、ここからのみ言葉を発しているのだ。
「私」は私ではない。「私」は池田某でも、オウム世代の誰かでもない。
「私」はこの世の何者でもない。ありたいとも思わない。
何者でもないことの絶対自由を自ら放棄し、自らで自らを何者かと規定しておきながら不自由であると、誰に対してのつもりなのだか文句言い言い生きるような仕方が嫌いなのだ。
(「メタフィジカルパンチ」池田晶子著)
自由を求めておきながら、自分を何かに固定する。自分を檻の中に入れて安心している。
人は自由を求めているようにみえて、本当は「絶対自由」というものに耐えられないのだろうか。 〇〇某、女、日本人、〇〇家、Z世代、宗教2世、仏教徒、漢民族、右派、A型、etc…、
何かに帰属していないと不安なのだろうか。きっと不安なのだろう。裸で、丸腰で、ひとりっきりでいることに耐えられない。
外に自由を求めるのではない。自らが自らを緊縛している無数のものに気づきその縄を自らほどくしか自由はない。自由は内にある。