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バリ島ハネムーンにサウナを添えて

 遠出の機会があるとサウナハットをそっと荷物にいれた。それは昨年新婚旅行でバリ島を訪れた時も変わらなかった。
 サウナを目的とした旅、所謂サ旅が市民権を得て久しい(あるいはサウナ好き達は市民権を得たと思っている)が、私は普段の旅行の隙間にサウナをデザートのように挟むことが多い。

新婚旅行、どこ行く?

 当初バリ行きを決めた時、私の頭の中にサウナのことはさらさらなかった。インドネシアのバリ島を選んだのは、円安下の中でも比較的行きやすく、エリアによってジャングルも海も楽しめそうだったから。そして日本人の私と韓国人の夫がどちらも行ったことのない国と場所だったから。
 ここではないどこかに行きたい気持ちはいつだってあるもののそれを凌ぐほどの面倒くさがり屋でもあるので、私の旅行はいつもネットで検索して見つけたモデルコースをそのままなぞったり、評価の高そうなホテルを場所の利便性までよく考えずになんとなく予約したりしてしまう。夫は私とは真逆で、旅行に行くとなればいつどこをどのようにまわるか、何をして何を食べるか、割としっかり決めてから行きたいタイプだ。そこで私は夫に大体の旅程組み立てをお任せしてしまった。

すばらしいスケジュール

 夫は私には到底できないすばらしいスケジュールを組んでくれた。私だったら6泊の旅行の全てか、せめて3泊ずつは同じ宿泊先を選んでしまっていただろう。
 夫が組んだスケジュールでは、なんと6泊の間で4ヶ所もの異なる宿泊先を訪れる予定になっていた。初日は夜遅くに到着するので空港からそれほど離れていない安宿に素泊まり。次の日は朝から海底を歩くシーウォークを体験した後ウブドという熱帯雨林エリアへ移動し比較的リーズナブルなヴィラで2泊目と3泊目を過ごす。4泊目はウブドと言えばの棚田を鑑賞した後、自分達専用のプールがついたプールヴィラへ。最後の5泊目と6泊目はハネムーンらしく、我々にしては背伸びした高級リゾートホテルへ、というふうに。
 この完璧に思える旅程に私が文句あるはずもなく(文句を言える立場でもない)、かくしてそのまま行く場所とやることがおおかた決定した。

バリ島でやりたいこと、ある?

 夫から何度も、バリ島でここは行きたい、これはやっておきたいってこと、ある?と聞かれた。当然と言えば当然である。その度に、まだあと1ヶ月以上もあるのにそんなこと聞かれてもわからないよ〜ほんとに行けるのか実感もわかないのに〜と頭の中では思ったが、新婚旅行のプランを完全に夫に任せきりにしている自分にも我ながら嫌気がさしていたので、少しだけ真剣に私はバリで何がしたいのか?について考えた。出て来た答えは、ウブドにハーバルサウナがあるみたい、そこに行ってみたい、だった。

幻のサウナ

 夫はサウナに興味があるわけではない。ウブドの山奥にあるサウナなんて情報が少なくてのっけから挫けそうになったが、せめて自分の趣味であるサウナについてくらいはきちんとこだわりぶりを発揮してなんとか予定に組み込んでみせたいと思った。他の観光地を訪問する時間も考え、どうやら3日目の夜にならウブドのサウナを訪問する時間がとれそうだということがわかった。
 そこはドラゴンフライヴィレッジという名前の施設だった。ホームページによると、営業時間は月・水・土の夜6時から9時までの3時間と、水曜の午前2時間のみという、幻のようなサウナだ。ヨガプログラムやハーバルサウナを備えた、日帰り利用も宿泊もできるリトリートのための施設らしい。
 私達がこの日ならサウナに時間を割けそう、と考えたその日は偶然にも営業日の月曜日だった。月曜日の夜3時間は、毎週1回のサイレントデーなるもので、一言も会話が許されないらしい。どんな体験になるのか想像もつかなかったが、ハネムーンの特別な思い出をつくりたく、行くことにした。

ドラゴンフライヴィレッジへ、いざ

 配車アプリで呼んだライドシェアサービスのタクシーに乗り込み、さあ後はサウナを楽しむだけ、とドキドキしていたら、ここから先は車は入れないから、と思ってもみなかった場所で降ろされてしまった。調べると、ここからサウナまでは順調に行って徒歩15分。人通りもあまりない細い坂道を上っていかなければならない。旅の疲れもあって夫婦喧嘩が勃発しそうになったが、幻のサウナが手に届きそうなところまで来ておいて諦めて引き返す選択肢もない。夫の、だからもっとちゃんと調べておかなきゃ〜、道間違ってるんじゃない?ほんとにこんなところにサウナあるの?、の小言を浴びながら、過ぎていく時間を気にしつつ、野良犬が飛び出して来そうな薄暗い道を一生懸命歩いた。
 時折分かれ道を間違えて引き返したりもしながら、だんだんとぽつぽつ灯りの見える場所に辿り着いた。宿泊施設も備えたドラゴンフライヴィレッジからの人々らしき、外国人観光客達ともすれ違うようになった。そしてついに……幻のサウナの受付が現れた。

サウナはこちら、の矢印に胸が高鳴る
ここが幻のサウナの受付だ

理想郷

 そこには理想郷のような、不思議な空間が広がっていた。お支払いを済ませ、準備してきていた水着やタオル、そしてサウナハットを持ち込んでその空間に入る。週に一度のサイレントデー。ここで着替えて体を洗って、ここに荷物を置いて、と説明してくれるスタッフのインドネシア訛りの英語も、聞き取れないくらいの小声だった。よくわからないことがあってもなんだか聞くのも憚られ、我々夫婦はなんとなく他の人達に習って荷物を置き、かろうじてカーテンで仕切られた狭いシャワールームで水着に着替え、ささっと髪や体を洗い、サウナに入る準備をした。
 サウナは薬草の香り漂うスチームサウナが一つだけ。水風呂がわりのプールがあり、所謂外気浴スペースには木を切って作ったと思われる椅子、ベンチが並び、その近くでは焚き火がぱちぱちと音を立てていた。日はすっかり暮れ、焚き火と少しの照明の灯りだけが辺りを照らし、幻のサウナにふさわしい幻想的な空間が広がっていた。来てよかった。もうそう思った。
 今振り返ると、旅先でスチームサウナをちょっと楽しむだけなのにサウナハットなんて大げさなもの持って行ったなあと笑ってしまうが、その時は当然のようにハットを持ってサウナ室に入った。6人ほど入れそうな小さなサウナ室はなかなかに熱くスチームのもくもくでいっぱいで、隣や向かいの欧米人のお客さんの顔が見えないほどだったので、これなら誰に笑われる心配もないと安心してハットをかぶった。誰も一言も発さず、ハーブの香りに癒されながらひたすら黙って蒸されていた。皆んなどこの国から来たんだろう、暑い国のこんな山奥まで来てサウナに入るなんて皆んなよっぽどのサウナ好きなんだなあ......。思うことも聞いてみたいこともいろいろあったが、サイレントデーなので口を開くことはなかった。受付でもらったスクラブがわりのオートミールを体に擦り込みながら、自分が今ウブドのサウナ室で蒸されているという不思議と幸せを噛みしめた。
 サウナ室を出たら、シャワーで汗を流してプールにドボンとつかる。ぷかぷか浮かんで仰向けになって、この理想郷のような幻想的な空間にそびえる木々やウブドの空に浮かぶ星を見ながらぼーっとした。プールを出たら、焚き火の近くの木のベンチに座って外気浴をする。ベンチに寝そべって目を閉じている人、座って瞑想している人、周りをキョロキョロしながら観察する私。おそらく遠い遠い国から集まった数名が、この奇跡のような時間を無言で共有していた。
 水と温かいハーブティーのポットが水分補給用においてあり、コップに注いで飲んだ。これでサウナ1セッション終了。これを数回繰り返した。
 一人また一人と他のお客さん達が着替えを済ませてこの空間を後にしていく。そろそろ幻の3時間が終わりに近づいているのが、時計を見なくともわかった。私と夫も目配せをして、どちらからともなく着替えを手にとりシャワールームに向かう。ドライヤーなんてあるはずもなく、濡れた髪の毛をタオルで適当に乾かして外に出た。

水風呂がわりのプールと、焚き火を囲む外気浴スペース

帰り道

 来る時にも薄暗かった道は、夜の9時を過ぎてもうスマートフォンのライトなしには歩けないほど暗くなっていた。暗闇に広がる真っ黒な田んぼの中にチカチカと光る人工的でない灯りを見つけたのは夫だった。蛍だ、の言葉に私も立ち止まり、ライトを消して二人無言のまま田んぼ道に佇んだ。あちらでもチカチカ、こちらでもチカチカ。これほどまでにたくさんの蛍を一度に見たのは初めてだった。
 私は夫と今日ここで、この短い数時間の間にカメラに収まりきらない景色をどれほどたくさん共有したのだろう、と思った。濡れた水着とタオルで重くなった荷物に確かに先ほどまでの数時間が現実に存在したことを感じながら、私達はまたライトを頼りに田んぼ道をくだり始めた。