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ラムネに浸かりに
その瞬間、銀色の大粒の泡がばーっと全身にまとわりついてきた。ぬるいお湯からは当然ながらしっかりと温泉のにおいがした。そのことにいたく感動した。
やっぱり本物に入ってみたい
日本一の温泉どころ。大分県別府市には、母の出身地なので子どもの頃からよく行く機会があった。今自分が東京で足繁く銭湯やサウナ施設に通いお風呂やサウナを楽しんでいるのは、別府の温泉に魅せられたのが始まりだったのだろうと思う。
温浴施設で大人気なのが炭酸泉だ。なんとなく健康に良さそうな雰囲気を漂わせているし、炭酸がよく溶け出すよう比較的ぬるめに設定されたお湯にゆっくり浸かると、体中に小さな泡がパチパチとつく。これが見ているだけでも楽しいのだ。
東京で入れる炭酸泉はもちろん人工的に炭酸を注入した人工炭酸泉なのだが、お風呂とサウナ好きの私をつくった大分県にはなんと天然の炭酸温泉が存在するという。本物への憧れとお風呂好きのこだわりが疼く。行ってみたい、とずっと思っていた。
母と二人で
大人になってから別府を訪れる際には、2泊3日などなかなかハードなスケジュールになることが多かった。祖母の家の周りにあるたくさんの温泉が自慢で、東京から様々な友人を連れて行った。これぞ日本の昔のサウナ!というようなむし湯や、晴れていれば絶景の見える広々した棚湯など、珍しい温泉に友人達を連れて行っては驚いてもらうのが嬉しかった。
大分といえば温泉。温泉といえば別府。いつも別府市の中だけで温泉巡りをしていたのはそれだけで充分だったからだが、今回は珍しく母と二人きりの大分旅。施設にいる祖母に会いに行った後は、大分県は竹田市へ本物の炭酸泉に入りに行こう!という計画を立てた。大分で初めての温泉施設に行くのはかなり久しぶりで、わくわくした。
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長湯温泉エリア
大雨の土曜日、別府から電車とバスを乗り継いで3時間、正午になってようやく大分県竹田市の天然炭酸温泉が広がる長湯という地帯にやってきた。2時間以上もの間バスの乗客は私と母の二人のみだった。後で知ったのだが、この路線は乗客がいないのでバス会社としては廃止したいのだが、平日にこのバスに乗って竹田市の学校に通う高校生数人のために残されているとのことだった。
観光案内所で聞いたところによると、この直入町一帯が長湯温泉と呼ばれるエリアであり、ぽつぽつある温泉施設に沸く温泉は全てが炭酸泉だという。私達はまずは最大の目的地であるラムネ温泉館を訪問し、次に湯処ゆの花に移動してお昼を食べ、湯の花が浮かぶ温泉を堪能してから帰ることにした。帰ることにしたといっても、車のない我々、自由には帰れない。行きに乗ってきたバスはすぐに折り返し大分市に戻って行く。帰りの電車に乗るためにはここから30分ほどタクシーに乗って駅に向かわなければならないのだが、観光案内所によるとなんとそのタクシーが長湯エリアにたった1台しかないのだそうである。1台……!一瞬絶望的な気持ちになったが、土曜日とはいえこの大雨だし他にお客さんはいないでしょう、と母と互いに慰め合いながら案内所を後にした。運転手さんのところに直接行って、今日の夕方帰るので絶対乗せてくださいね!とお願いしようと思ったのだ。車が出払っていたらどうしよう……と一抹の不安がよぎったが、歩いて行くと、タクシー会社の看板とともにラムネ色としか表現しようのない鮮やかな水色のタクシーが視界に入ってきて、まずはほっと一安心した。運転手さんはラムネタクシーの横の小さなお家でテレビを見ながら昼食をとっていた。あの!すみません!私達今日の夕方の電車に乗らなくちゃいけなくて。あの、車はなくて、バスももうないので、このタクシーがないと帰る手段がないんです!予約お願いします!帰りはまたここに来ますから、絶対いてくださいね、ねっ!とお食事中の運転手さんに畳みかけ、わかったわかったと優しく頷いてもらってから、ようやく本当に安心できた。
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写真にもはっきり写るほどの大雨だ
ラムネに浸かって
ラムネ温泉館というキャッチーな名前のその施設は、温泉はもちろん、オリジナルのキャラクターも魅力的だ。現金の持ち合わせがあまりなかったため(このことは今も後悔している)、帰りのタクシー料金のことを考えながら慎重に吟味してなんとかいくつか購入した。
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肝心の温泉は、温泉のにおいがした。当たり前なのだが、普段人工の炭酸泉に浸かっている私からすると、本当に感動的なことだった。体の汚れをシャワーで落としてから露天の温泉に浸かると、強い温泉のにおいとともに、東京で見慣れた透明の小さな粒とは異なる銀色の大きな炭酸の粒がばーっと体中にまとわりついてきた。本物だった。30度しかない冷たいくらいの温泉なのに、溶け出した炭酸が体の中を駆け巡りぽかぽかしてくるのを感じる。体だけではもったいないので洗顔してから顔もつけてみましょう、ピリピリするけど我慢、と珍しい文句がかわいいイラストとともに書かれていたので、しっかり顔もつけておく。ピリピリ感が何かに効いている気がして楽しかった。
内湯は露天とは打って変わって42度くらいのあつめのお湯だった。こちらにもしっかり炭酸が溶け出しているそうなのだが、あつ湯には目に見える炭酸の粒はない。飲泉可と書いてあったので、湯口から手ですくって飲んでみると、鉄味のあたたかい炭酸水のような不思議な味がした。40年近く生きてきてもまだ初めての味ってあるんだと思った。母も飲んでみて、鉄の味を強く感じるから鉄分が不足してるのかな、と笑った。母は1回飲んだ。決して美味しくはなかったが、私はこの味を忘れないように6回飲んだ。
ゆの花が浮かぶ温泉
ラムネ温泉館から徒歩で湯処ゆの花へ移動し、食事をとったあと、温泉とサウナを楽しんだ。白いゆの花が浮かぶ珍しい温泉で、加温加水消毒なしだという。露天にはサウナ後の水風呂がわりに、30度あるかないかの天然温泉が用意されていた。サウナの後倒せる椅子に体をフラットにして横たわり、目の前の山々を眺めた。雨はこの間もずっと降り続いていた。風がさーっと体を吹き抜けていく。
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そしてタクシーに
タクシーのところまで歩いて行くと、運転手さんがちゃんと我々のことを待ってくれていた。以前は他にもタクシー会社があったが、廃業してしまったそうだ。ここまで来る人はほとんどが自分の車で来るので、タクシーの出番はあまりないそうである。
最後に気になっていたことを聞いておこうと思って、口を開いた。「このタクシーってすごく珍しい色ですよね、きれいな水色で。ラムネ色だからこれにされたんですか?」運転手さんはふふふと笑った。結局答えは今でもわからないままだ。