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虫けら映画評01『PERFECT DAYS』

虫けら映画評01『PERFECT DAYS』一文字の大きさ 
臭い、汚い、といった台詞や描写は入念に排除されている。
ただ一箇所だけ、役所広司扮するトイレ清掃員の男と一緒にいた幼い我が子を見つけた若い母親が、息子の掌を除菌ティッシュで拭く場面にのみ、ある種の抵抗感が表現されている。
ヴィム•ヴェンダースが監督した本作に登場する公衆便所の中には例えばスタンリー•キューブリックの近未来SF映画に出てきそうな、おしゃれにデザインされたハイテク仕様のものまであるので少し驚いた。
俺がこれまで近所の都立公園で目にしてきた、床には煙草の吸い殻や酒類の空き缶や枯葉が散乱し、ゲロまみれの洗面台に糞まみれの個室、穴ぼこの空いた壁にはバンクシーよりはよほど傑作な卑猥な落書きが踊り、ホームレスが陰部を洗っている、といった現実の光景とはあまりにかけ離れていたからだ。
光瞬くスカイツリーの足下で営まれる昔ながらの古書店や銭湯、カラオケスナック、日本最古で名高い浅草駅の地下街で飲むハイボール、ルー•リードやパティ•スミスのカセットテープ…それらのレトロなギミックとの対比が象徴するのは本作が結局のところ、ヴェンダース一流の解釈による日本人像を描いたサイバーパンクメルヘンに過ぎない、ということである。

「あんたにはトイレ清掃を担当してもらうから」
バイト初日、現場責任者の醜い小柄な老人は冷めた口調でそう言った。
カートの中には中性洗剤に漂白剤、研磨剤、歯ブラシにワイヤーブラシにスポンジにタワシ、雑巾、タオル、バケツ、大中小のごみ袋、などといった物が整然と詰め込まれてあった。
俺は内心舌打ちをした。
くそ、そういうことか。
一瞬、そんな話は聞いていない、辞めさせてもらうと言って、回れ右してトンズラする手も考えたが、それでは負けだ。
何に対する負けか?
自分の弱さに対する負けだ。
それにそこは、大手建設会社の研究施設として実験棟が幾つも建ち並ぶ一種特殊な空間であり、小学生が社会見学に訪れたりもする、ちょっと興味深い職場でもあった。
午前6時から11時までの短時間だから、職員である研究者たちと鉢合わせることも稀だ。
仕事の手順を指導されつつ各階を移動しながら感じたことは、思ったより清潔に保たれており、抵抗感は少ない、というものだった。
間違いだった。
毎朝、他人が排泄した汚物の痕跡を跡形もなくきれいに拭き取り、音高く放尿している誰かの横でアンモニア臭のこびりついた便器にしゃがみ込んで陰毛を取り除き、女子トイレの汚物入れの中身を確認し、血を吸った生理用品が少しでも入っていたら別の大きなゴミ袋に捨て、新しい袋を決められた手順で正しく設置する。
トイレットペーパーは所定の短さになったら早めに交換し、先端を三角形に折り曲げる。
洗面台の鏡は曇りひとつなく拭き、金属製の蛇口も光り輝くまで磨き上げる。
最後にハンドバキュームを使って塵や埃を吸い取ってから足跡のついた床をモップがけする。
こうした仕事を毎朝繰り返すうちに、少しずつ澱のように溜まってくるものがある。
何度か我慢の限界がきて、手にした濡れ雑巾を床に思いっきり叩きつけた事がある。
それでも引越しが理由で辞めるまで一年半以上も働き続けたのは、ただ単に慣れと、金と、奇妙な意地だけで、最後に辿り着いた結論は、トイレ清掃と野垂れ死になら野垂れ死にの方を選ぶ、というもので、その考えは今も変わらない。

本篇でヴェンダースが引用しているルー•リード『Perfect Day』は、ニューヨークという摩天楼の片隅に生きる薬物中毒者や性同一障害者といった者たちが夢見る"完璧な1日"であり、それは幻に過ぎない儚い夢である。
曲の終盤「自分で蒔いた種は自分で始末しろ」というルーならではの辛辣な繰り返しがある。
要は「自分のケツは自分で拭け」ということである。
そこに主流派としては生きられない者たちに対する厳しくも愛あるルーの視線がある。
対してSを加えて複数形とした映画はどうか?
曰く「何事も寛容に受け止めて、勤勉に過ごし、足るを知り、侘び寂びを愛でる心がありさえすれば、毎日が完璧になりますよ」というよくある禅的なもので、その意味で安直だ。
パンデミック後の憎悪と偏見に満ち分断化された世界に対する提言としては妥当かもしれないが、完璧な1日と、完璧な毎日の差は大きい。
ヴェンダースにルーの怒りや絶望はない。
主人公が決まりきった1日の仕事を終えようやく眠りに就くと訪れる、色のない記憶の断片のショットのみ鮮烈な印象を残すのは、それが暗示するのが夢ではなく、死であるからだ。
人の一生など所詮その程度のものた。
因みにルー•リードやヴェルヴェット•アンダーグラウンドのコアな聴き手が愛娘にジャンキーの女王たるニコと名付けることはまずない。
たとえCをKに変え誤魔化したとしても。
誰よりも「足るを知らない」のが薬物中毒者で、過剰であることを一心に追い求め、後戻りできなくなるまで永遠に逸脱してゆくのが薬物中毒者の、或いは元薬物中毒者の宿命なのである。
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