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【2】新聞記者・佐倉 | 風に乗って

「隣の芝生は青い」ということわざがある。

あまりポジティブな場面では使われない。他人のことばかりに目移りしてしまい、自身が置かれている状況を理解していない、という人間の性を戒めるような意味合いがある。

それでもいいではないか。誰にぶつけるでもなく、佐倉はそんなことを考えていた。

3年働いた広告代理店の営業を辞め、今年から新聞記者として働き出した佐倉。そのシフトチェンジは、まさしく「隣の芝生」を追いかけて飛び出したようなものだった。

佐倉の前職は、展示会ブースなどの屋外広告をデザイン・制作する代理店だった。彼の主な仕事は、デザイナーや木工制作部隊など、実際に手を動かして造形を作る人々のディレクション。広告物の完成までに、誰が、いつ、どのようなタスクをするべきか「未来」を見ると同時に、利益を生み出すためのコスト管理や、お客様対応など「今」にも気を配ることが求められた。人々が集うような空間づくりに魅力を感じていた彼は、自身が携わった造形が世に出ることを、少なからず誇りに思っていたのだった。

そんなマインドが変わり始めたのは、デザイナーとして働く佐倉の同期がきっかけだった。

3年目を迎えた頃だった。アジア圏でも最大級のエンタメ系展示会に出展するブースを担当していた佐倉。彼にとって過去最高額となるブースは、入社当時から仲良くしてきたデザイナーとチームを組むことになった。

しかし、そのプロジェクトは想像以上に難航した。プロジェクトの始動が遅かったこともあり、完成までに残されたスケジュールは通常より短い。ただでさえ悪条件の中でも、当然ながらクライアントのこだわりは尽きない。デザインの修正を重ねても、なかなかゴーサインはでなかった。佐倉の経験の少なさも相まって、プロジェクトの進行に暗雲が立ちこめていた。

そんな中、最も佐倉が気に病んでいたのは、同期のデザイナーだった。実際に手を動かすのは彼自身だ。プロジェクトの舵取りを担う営業として、クライアントの修正を伝える度に、心苦しさばかりが募っていった。

何度手直ししたか見当もつかなくなった頃、そのデザイナーは見違えるほどげっそりして出社した。聞けば、朝の4時まで作業を続けていたのだとか。佐倉が心配して声をかけると、彼はこう答えた。

「いやー、こだわってたら止まらなくなっちゃってさ。結局朝までかかっちゃった」

佐倉は驚いた。何かを創作しようとする者は、ときに身体の限界をも超えて、その手を動かし続けるのかと。そして、そのデザインは無事にゴーサインをもらい、なんとか完成までこぎつけたのだった。

その瞬間からだった。隣の芝生が青く見えだしたのは。世界に数多とある「表現」のなかでも、佐倉は文章を愛していた。あくまでも表現する立場の者を支え続けてきた彼に、迷いが生じた。自分も、あちら側に飛び乗ってみたい。迷いは早々と決意に変わり、彼は慣れ親しんだ芝生から一歩外に出たのだった。



「……について。」

対面に座る滝沢の言葉で、佐倉は現実に戻ってきた。

「あ……はい、えっと……」

「だから、次は目指してほしい新聞記者像について。ちゃんと聞いてろよ」

上司かつ育成担当の滝沢を怒らせたら怖いのは、ついこの間耳にしたばかりだ。佐倉は背筋を立て直した。滝沢が話を続ける。

「これは別に強制じゃないけど、本は読んだほうがいい。どうやったら文章上手くなりますかってよく聞かれるけど、結局は文章をひたすら読むしかない。新書よりも、小説が良い。こんなに読みやすいのはどうしてなんだろうって。こんな表現もあるのかって。そんな発見を積み重ねてほしい」

その言葉に、佐倉の口角は思わずつり上がった。彼自身も、小説を楽しむ際、物語の展開よりも、作者が繰り出す唯一無二の文章表現に心酔していたからだ。

「やっぱりそうですよね!」

急に食いつきが良くなった後輩に戸惑う滝沢をよそに、佐倉は自身が置かれた状況をかみしめていた。どうやら、こちら側には同じ感性を持つ人が少なからずいるらしい。

この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは必ずしも一致しません。


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