「参加・体験」に対する批判と自分を射抜くこと ー田中優子「一揆を通して社会運動を考える」
関心の薄い人こそ対象に。
どうやって?
「参加・体験」という手法で。
映画「MINAMATA」を見たのだけど、確かに「参加」だなぁと思った。
小熊英二さんは『私たちはいまどこにいるのか』で、ベビーブーマーが貧しさから豊かになる経験が後ろめたさとなり、「豊かさの陰で犠牲になっているものがあるはずだ、加害の自覚を持たねばいけないという感情をひきおこし、マイノリティの発見と、マイノリティを足場にしてマジョリティーを撃つ」パラダイムの形成にいたった、と説明する。
しかし、田中優子さんは「後ろめたさ」ではなく「喪失体験」だったという。さらに、記憶にのこっていく社会運動には共通点があるという。
同じようなことは伊藤寿朗も書いている。第三世代論は攻撃的だが、必ず自分にもその矢は向けられている、と。単にマジョリティを撃つ(第三世代を批判する)のではなく、撃つなかに自分も存在していることが必要なのだ。
「参加・体験」だけでは限界がある!と気づくことができるのは、やはり「参加・体験」をある程度やってきた自分ではないだろうか。それは「参加・体験」をできている「うしろめたさ」だけでは説明できない。やっぱり自分のやってきたやり方を反省していく、自分に矢を向けないと説明ができないと思う。