もしもわたしの感性が、豊かであるとするなら 〜22の詞から
言葉が好きだ。
言葉によって、心に輪郭がついて、世界が違ったように見えて、自分に気づけるようになるのが好きだ。
そのなかでも歌詞はとくべつで、歌をはじめた8歳の頃からとにかく歌詞を聴いて育ってきた。詞の技術的な凄さはもっと後になってから感じるようになったことで、そういう詞はまた別の記事にまとめることにする。
今回はわたしの心を掻き混ぜ、耕し、潤し、育て、象り、そして傷つけ、奮い立たせてくれた歌詞たちを集めた。
失くしたものと記憶
10代は「喪失」を聴いていた。「ここにいない」という強い思いで、ここにいつづけるひとの歌がすきだった。失くしたものは、諦めても忘れても、傷口が乾いても、うまく消えてくれなかった。
当時中学生のわたしは「あぁそうか」に衝撃を受けた。曲中でもう会えないということに「気づく」、その心の動きを書き出せることが鮮烈だった。中学を卒業したあと、学校沿いの土手をこの曲を聴きながら毎日走っていた。
夏が来るたびに、この曲のこの旋律に何度でも泣く。
「君が居な」くなったことで、どれほど毎日がどうでもいいものになってしまったのだろう。それ以外の毎日の全てを足しても、「君が居る」ことに到底及ばない。
一見、よくわからない。でも、こんなに「五感に焼きついている記憶」があるだろうかと思う。君の愛し方を思い出すたび、匂いがよみがえる。歩き方を思い出すたび、笑い声がきこえる。まるで映画のように、「君」の情景を憶えているんだろう。
「それから」の日々を生きる息苦しさを、はじめて言い当てられた気がした。今でこそこういう詞はたくさんあるけれど、当時としては先駆けだと思う。
失ったものは散り散りになるような気がしていた。でもほんとうは、「失ったもの」として不安定に積み重なっていくのだ。
過去の自分に苦笑しながら、それが愛おしくて眩しい。苦しいとか悲しいじゃなくて、ただなつかしくて泣いてしまう。
曲中に出てくる「君」という存在が、「僕」の大切な人でありながら「忘れ得ぬ人」ではないのがかなしい。忘れ得ぬ人はいつだってその幻影に立ち止まらせるだけの存在なのに。
未経験の「映像」
描かれている経験をしたことはないのに、詞が綴る世界があまりにも映像で見えてしまうものだから、心惹かれる歌がある。
知っている。わたしもその気持ちを知っている。
「人前」というとき傍にいる人にはとても見せられない痛みを「きみ」には見せられる。それは独りよがりな甘えなんだけど、大事にするとは真逆かもしれないけど、きみが特別で大切だということにどうか気づいていてほしい。
みずみずしい感性ってこういうことをいうのだと思った。このままずっと他愛ない話をし続けていたい夕方の柔らかい光と、なにげない癖まで泣きそうに見つめている繊細なまなざし。
唐突な「だよね」に会話が見える。どんなふうにあなたを困らせて、どんなふうに無理して笑って、どんなふうに心を押し殺したか、どんなふうに「いつもの自分」を演じようとしたのか、ぜんぶ見える。
まだ冬のすこし残る三月、わたしはこの空を見た。雪は降ってはいないけれど、よく澄んだ空には柔らかい冷たさがあって、いまにも風花が舞うようだった。こんな空にたとえられるひとのうつくしさが眩しい。そういうふうに見つめる視点の愛しさも。
この曲の「映画監督が一生に一度だけ作れる映画のような曲」という評に何度でも泣いてしまう。
「ないかな ないよな きっとね いないよな」たったそれだけの言葉に、夏祭りの雑踏、人波の揺れ、夜風、恋人の面影が映し出される。
小説仕立てのようなこの曲は、主人公が出て行った愛する人に思いを馳せていることが徐々に明かされる。
この相手は恋人と考えるのが一般的だと思うけど、この部分は母親に置いていかれた子どものようだ。まだ純粋に帰りを信じていて、同時にもう二度と会えないことを無意識に知っている。
たまらない。1番もたまらないのだがなんといってもこの2番Aメロがたまらない。他愛のない会話から、コンビニの帰り道の二人がありありと見えてくる。彼女をちょっとだけ冷たくあしらっておきながら、心の中では何より大切に、代え難い存在として想っている。最後の一行だけが彼女には聞こえていないモノローグで、それを第三者視点で見せられていることに当てられる。たまらない。
言い当てられて、はじめて見つかる
そんなこと考えたこともなかったけれど、詞に言われて初めて、自分もそう思っていたことに気づく、ということがある。未分化の心情に名前がついて初めて、たしかにそこにあったことを知る。
この二行に一体どれほどのひとが救われるだろう。自分を肯定できないまま、それでも生きている日々につけられた名前だと思った。靄のような気持ちに名前をもらうことは、傷を癒す術なのだ。
抉られる。この思いに心あたりのある自分に。人に優しくありたいと願いながら、「不幸なのが私じゃなくてあの子でよかった」という仄暗い優越感を覚える自分に。聴くたびにいつもそれを炙り出される。
ズボラ長女気質、正拳突きの一曲。こちとらやっておくからいいよ、という小さな優しさに、相手と自分の釣り合いの取れなさを感じて勝手に傷つけられる面倒な性格なのだ。
わたしじゃない「強さ」
わたしは基本詞の一人称を自分と同一化して、「自分の感情」として曲を聴く。
だけどたまに「これはわたしではない」と強く思う詞に出会う。わたしはとてもこんなふうには言えない。だけど、誰かにそう言ってもらいたかった。凛として力強い、わたしではない「わたし」に奮い立たせてもらえる言葉たち。
正しくて、いらない。そう言ってもいいんだってことを教えてもらった詞。もう何年もお守りにしている。
絶対にこんなふうに言い切れないけれど強烈に心惹かれる宣言。理想や思い込みの型に嵌め込んで尊重したり、否定しながら愛したりされることへのアンチテーゼだと思っている。
死について歌われた詞のなかで光る人生哲学。自分がだれかに与えられるものは、自分が天から与えられたもの。欲するばかりでなく、惜しむこともなく、人に与えてこそ得られるものがある。
元来応援歌は苦手なのだけれど(根暗なので)、この曲のバランスは好き。「だれかが見ていてくれた」という安心感を覚える。この曲中で「キミ」と歌われるわたしのことは、結構すきだなと思う。
もしもわたしの感性が豊かであるとするなら、それはわたしの日々に、ありとあらゆる瞬間に、この歌と言葉が傍にいてくれたからだと今は思っている。
あなたにも、そんな歌がありますように。
あなたの心のとなりにいつも、お守りの言葉がありますように。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?