夢を持ち続けること
ある日、家の本棚を整理していたときのことだ。古びた文庫本や雑誌の間から、一冊のノートが滑り落ちてきた。中学生の頃に書いた文章がぎっしり詰まったノートだ。「未来の夢」と題されたページを開くと、大きくこう書かれていた。
「私はエッセイストになりたい」
当時の私は、自分が書いた文章が世の中に受け入れられるのを夢見ていた。けれど、その夢がどうやって現実になるかはまるで考えていなかった。ただ漠然と、「自分の言葉で誰かを笑わせたり、泣かせたりできたら」と思っていたのだ。今思うと、何とも無邪気な願望だった。
高校生になると、現実という名の波が私を飲み込んだ。勉学、就職活動、友人関係……。気づけば「エッセイストになる」という夢は心の片隅に押しやられていた。それどころか、自分が何を本当にやりたいのかすら分からなくなっていた。
社会人になってからはさらに忙しく、日々の仕事に追われて文章を書く時間など取れるはずもないと思っていた。
そんなある日、読んだエッセイが私の心を強く揺さぶった。
それは、ある女性作家が自分の平凡な日常について語るエッセイだった。特別な出来事ではない。家族との食卓の話や、雨の日の散歩のこと。ただ、それがとても面白いのだ。私の中に眠っていた「書きたい」という気持ちが、ふと目を覚ました。
「こんな風に日常を切り取って、人の心に響かせることができたら……」
そう思った瞬間、心が弾むのを感じた。
その週末、私はカフェの片隅でノートを広げた。久しぶりに書く文章に、指が思うように動かない。それでも、ペンを走らせた。内容は他愛ないものだった。仕事帰りに寄ったコンビニで見た子どもの様子や、家の近くで鳴いていた猫のこと。
でも、書き終えたときには達成感があった。「書いた!」という実感。それは私にとって、記念すべき再出発だった。
思い切って、書いた文章をSNSに投稿してみると、思いがけず反響があった。「面白いね」「続きが読みたい」というコメントをもらったとき、私は小さな歓喜に包まれた。
「これならいけるかもしれない」と勘違いするくらいが、ちょうど良いのだろう。
エッセイを書くようになって気づいたのは、アイディアや共感というのは特別なものではなく、日常の中に転がっているということだ。
例えば、スーパーでレジ袋を断ったはずが、勢いで有料の袋を買ってしまったとき。出勤時に家の鍵を忘れ、靴を片方履いたまま部屋に戻ったとき。そんな些細な出来事の中に、人生のちょっとした笑いが隠れている。
ある日、友人がこんなことを言った。
「あなたのエッセイって、パンの耳みたいだね」
一瞬、どういう意味か分からず戸惑ったが、友人はこう続けた。
「耳って、主役じゃないけど、実はすごく味があって美味しいじゃない? あなたの文章ってそんな感じなんだよね」
この言葉が私にとって、大きな励みになった。
「エッセイストになる」と改めて決めたとき、私は自分の生活を少しずつ変えることにした。早起きして静かな時間に書く。普段はスマホを見ずに、周りの風景や人々の様子を観察する。
そして、週末には図書館や公園でノートを開く。
こうして書きためた文章を持ち込み、編集者にメールを送るときは緊張した。「こんなの読んでもらえるだろうか」と思ったが、勇気を出して送った結果、小さな地元紙の片隅に掲載されることが決まった。
掲載された文章を手に取ったとき、「エッセイスト」という言葉がほんの少し、現実に近づいた気がした。
エッセイストという職業に特別な資格はない。それでも、読者の心に何かを残せたとき、その価値が生まれるのだと思う。
誰かが「この文章、まるで自分のことみたい」と感じてくれたり、「読んだら元気が出た」と言ってくれたり。そんな瞬間のために、私はこれからも書き続けたいと思う。
夢をかなえる道のりは、決して華やかではない。むしろ地味で、長い時間がかかる。でも、その一歩一歩の先に、「かなえたい夢」があるのだと、今なら分かる。
さあ、今日もノートを開こう。きっとまた、どこかに小さなアイディアや可能性が転がっているに違いない。