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宮澤賢治の詩の正体

サドルマウンテンの雪  ゲイリー・スナイダー

この世で唯一信頼できるのは
クラカケマウンテンにつもる雪だけ
原野や森に積もる雪は
溶けては凍りまた溶け
まったくあてにならない存在
吹雪が吹きあれ
外は酵母のようにぼやけていて
それでもただかすかな希望の源は
クラカケマウンテンにつもる雪だけ

これは宮澤賢治の有名な詩「くらかけ山の雪」です。ビートニクの詩人ゲイリー・スナイダーは賢治に傾倒して、詩集「バックカウントリー」の後半部分では賢治の詩を20ばかり英訳しています。賢治が欧米に紹介されたのはこのときがはじめてでしょうね。

賢治の詩を英訳で読むと、ふだん気がつかないいろいろなことがわかってきます。たとえば賢治の詩の魅力の大半は、花巻方言の独特な響きや表現と、多用される擬音語や擬態語からくる個性的で豊饒なイメージからくるものだということがひとつです。スナイダーの英訳詩ではそれがスッポリと抜け落ちているからです。

逆に詩を英語になおすことによってあきらかになることもあります。英語だとことばの表現する意味がくっきりと明瞭になり、そこからあらためて賢治の詩をみなおすと、詩のことばの意味はほぼ一義的であるのがわかります。「くらかけ山の雪」とはなにかの隠喩などではなく、「くらかけ山の雪」以外のなにものでもありません。

賢治の詩の豊饒なイメージに魅了されまどわされがちですが、詩句のうらにはなにもなく,まったくのがらんどうです。詩は内省的でかつなにかおもわせぶりなところがありますが、ほんとうは空虚でしかありません。もちろん音のおもしろさや方言による異化作用、ことばの豊潤なイメージだけでも、じゅうぶん詩としては魅力的に成立はしていますが。

なかはがらんどうで空虚にもかかわらず、というより、むしろなかには実質的なものがなにもないからこそ、さまざまなひとがそこに自分を投影してしまいます。おおくのひとを魅了してやまず、賢治の詩が人気のある理由はそれです。「賢治産業」と揶揄されるほどで、たとえばこの詩に触発されたものといえば,立松和平の「くらかけ山の熊」といった小説があります。

宮澤賢治の詩は、ことばの純粋な意味において「こどもの詩」なのでしょう。それは「こどもによる詩」ではなく、「こどものための詩」でもなく、ただ「こどもの詩」です。よくいえば邪心のない純粋な、わるくいえば大人になることを拒否した詩です。その点おなじ岩手の詩人でも、石川啄木とは対照的です。

宮澤賢治が生涯、作品らしい作品は詩と童話しか書くことができず、評論じみた文章類はすべてみじめに失敗していて、ましてや小説といったものは書かず、書いてみようともしなかったのはそのあたりに関係しているとわたしは睨んでいます。


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