「そうかもしれない」
いつのころかわたしは気安く小説を手にとる習慣をうしないました。年とともにひとの世のむずかしさが身にしみてきて、そういった急所にふれずにすまされない小説というものがわずらわしくなったからのような気がします。
そうはいってもいまもときどきは小説を読みます。いくら気遠く思っても、文学は人生と同じように向こうからやってきます。耕治人「そうかもしれない」を読んだのもそんなわけです。
80歳の夫婦の話です。50年以上「わたし」にほんとうによく尽くしてくれた妻に、認知症の症状があらわれ次第に進行していきます。あれほど料理が得意だったはずなのに、毎回鍋をこがし、ボヤまでだすようになって、火をあつかわせることができなくなる。
そしてある日「あたしもう洗濯が出来ないわ」と呆然と立ち尽くします。「わたし」は炊事や洗濯をかわりにやるようになり、妻の粗相を始末するときも、これまでの妻の苦労を思えばまったく苦になりません。区の福祉関係者の尽力もあって、妻は特別老人ホームにはいるのですが、こんどは「わたし」に口腔がんがみつかります。
多量の下血によって一時的に危篤となりますが、なんとかもちなおし小康状態となったわたしのもとに、ホームの職員に連れられて妻が見舞いにやってきます。「わたし」はうれしくて涙がとまりません。妻のほうは職員に「ご主人ですよ」といわれて一言だけ「そうかもしれない」。
耕治人の私小説です。病床にありながらうつぶせになって、必死になって一マス一マス字をうめていったにちがいありません。この小説を書き上げてほどなくして彼は亡くなります。
家族のことでさまざまな体験をしているわたしには身につまされる内容です。そして自らの身の処しかたについて考えさせられました。だからこそなお一層わずらわしく、そのぶんだけほんとうに切実に、小説というものがわが身に切りこんできます。
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