俳諧という旅の覚醒の喜び ――髙野公一著『芭蕉の天地 「おくのほそ道」のその奥』をめぐって
俳諧という旅の覚醒の喜び
――髙野公一著『芭蕉の天地 「おくのほそ道」のその奥』をめぐって
(朔出版2021年6月刊)
数年に及ぶ髙野公一氏による「おくのほそ道」研究と論考の成果が、一冊の書として纏められ上梓された。(朔出版 2021年6月)
こうして成し遂げられた偉業に向かい合うと「髙野公一氏がそのことに情熱を傾けたのはなぜなのか」という思いが浮かぶ。
各論では言及されていない、その問いのこたえを、髙野公一氏は本書の最終章の末尾と、「あとがき」で間接的に明かしている。
まずその「あとがき」の一部を次に摘録する。
※
(略 文系資料の発見と研究によって)『おくのほそ道』が単なる旅行記といったものではなく、緻密に計算され尽くした文学空間であるとの認識が確定的となった。そして、それらの研究の成果を踏まえながら、この文学空間をより自由に、より深く鑑賞することが出来るようになった。
※
そして本論の最終章の結びでは次のように述べている。
※
芭蕉の「不易流行」は世界観であり、俳諧観であった。その一体性の認識であった。新しくかつ時代を越えてゆく俳諧こそ、芭蕉が追い求めてきたものであった。その秘儀を悟り得たのは旅の賜物だった。そして、それは冷静な「論」よりは元来、どこか喜びの「信仰告白」に似ていたはずだ。「形而上的理念」「宗学の論理」や「指導方針」である前に、それは覚醒の喜びであった。それを胸底に「われ見たり」「われ知りたり」と芭蕉は弟子たちに語り始めたに違いない。
去来や土芳の伝える「絶対矛盾」ともいえる「師の言葉」は、求道者芭蕉の覚醒の喜びを加味して読みたいと思う。
※
この言葉は俳句に携わる作者の、本書の論考論述の目的でもあろうが、そのことを成し遂げようとする意思と志向の内に含まれる人生的な動機としての「生きる姿勢」の表明でもあろう。
その中軸に髙野公一氏は「覚醒の喜び」を置く人であることが了解される表明でもある、ということだ。その対象となった芭蕉の「おくのほ道」に、俳諧に向かい合うことで、同じように「覚醒の喜び」を見出す先達の姿を見出しているのである。
その至福の共感が、本書を著わす根源的なモチーフとなったということでもあろう。
各章を読み進む読者であるわたしたちも、同時にその「覚醒の喜び」を分かち合うこととなる。
その点が数多の芭蕉研究、「おくのほそ道」研究の書と決定的に違うのである。
研究書であることを越えて、人間の内的な「覚醒の喜び」という文学的主題を描き出そうとする、創造的な文学書でもある、ということだ。
「あとがき」に各章で何について論証、論述したかということを、髙野公一氏自身が記述しているので、それをそのまま紹介すれば、本書の内容を把握しやすくなるだろう。
髙野公一氏自身による記述の、各章の主旨をそのまま以下に引用する。
※
第1章 頭陀袋の一冊
『おくのほそ道』のテキストや『曾良日記』出現とその意義、本文の構成や制作過程などを概観し、芭蕉の意図した目的などについても考える。
第2章~第5章 いざ、歌枕/芭蕉の「天地」/天空の越後路/萩と月
旅程に従って、陸奥路、出羽路、越後路、北陸道を、それぞれに通底する固有のベース・テーマを聞き取りながら読み進んでいく。各章ごとに流れている旋律は、作者芭蕉その人の胸深く流れる情緒であり思いである。
第6章~第7章 「書留」から『ほそ道』へ/行く道・帰る道
『おくのほそ道』に採用された発句について、その成立までの経緯と完成された道中記の中での構成的側面を概観する。俳諧道中記における俳諧(発句)の定位の様を眺める。
第8章 歌仙の時
俳諧師芭蕉ここの旅で幾度も俳諧興行を行っているが、その場面を駆け足で辿ってみる。そして、それが本文にどのように触れられ、また書かれていないかなどを見ながら、実際の旅と道中記『おくのほそ道』の重なり、離れ合う姿を観察する。現実の旅の俳諧師、芭蕉の実像の一端を垣間見る。
第9章 天地とともにある俳諧
この旅で生まれたといわれる芭蕉の不易流行について、弟子たちの論ではなく芭蕉自身の原点を探るものである。残された芭蕉の僅かな直接資料と、弟子たちの書き残した芭蕉の直接話法の記述を中心に考察する。
※
「芭蕉の『天地』」は第二回ドナルド・キーン賞優秀賞(平成二十九年)、「天空の越後路」は第三十五回現代俳句評論賞(平成二十七年)を受賞した評論である。
私は後者の「天空の越後路」を協会誌「現代俳句」誌上で読んでいて、本書にて全体の章の中に置かれた形で再読した。
受賞作を詠んだときの、瞠目の印象を憶えている。評論文なのに、文学書を読んだような作者の内なる文学的主題への、熱い情熱を感じた。
本稿の最初に、「研究書であることを越えて、人間の内的な『覚醒の喜び』という文学的主題を描き出そうとする、創造的な文学書でもある」と述べたが、受賞作にも同じことを感じた次第である。
以下、章ごとの主旨を紹介する。
第1章 頭陀袋の一冊
本章では実際の「旅」と、芭蕉が『おくのほそ道』を文学作品として完成させるまで経緯が詳細に後付けされている。本書を文学作品と捉える視座は髙野公一氏独りの視座ではないが、先行するそれらの論考も紹介しながら、独自の視座を提示している。
何よりも、その論述の文体自身が他の論者にはない文学的な熱情を感じさせるものだ。そのことが感じられるこの章の文章を以下に紹介する。
※
『曾良日記』の出現は、『ほそ道』の読み方を一変させた。一言で言えば、それは単純な旅の記録の紀行文といったものではなく、緻密に再構成された文学空間であったという発見であった。(略)
曾良が書き残したものは、几帳面な旅の記録であった。一日の行動、行動手段、天気、到着、出発の時刻、会った人々などが克明に記されていた。そして、それとつき合わせると、『ほそ道』は旅の事実を省略したり、旅の行程を入れ替えたり、架空の物語が嵌め込まれたりしながら、旅の再構成が成されていることが明らかになった。『ほそ道』の文学性・虚構性の分析が熱気を帯びて行われた。(略)
※
このような述べ方に著者の「文学であることに対する」情熱が覗える。
「文学性・虚構性の分析が熱気を帯びて行われた」と氏は述べているが、それを行っている国文学、俳文学の研究者たちの文章とは、どこか「熱量」が違うように感じられる。
学術的な研究者たちの文章は淡々としていて、曾良の記録と『ほそ道』の記述の相違点の指摘と、その虚構性(事実とは違う創作であるとする)について論証する方に重点がある学術的な記述の仕方であり、髙野氏の文章に感じられるような、そのことを文学性としての虚構性と見做す視点と少し違うように感じられる。
熱量が違うのだ。
それは次のような述べ方に顕著である。
※
一つ一つの道中の虚実の場面が、歌仙の付け合いのような注意深さをもって配置された。その際、道中記の全体構成の均一性・対称性に綿密な配慮がなされた。また、山場を成す、白河、松島、平泉、出羽三山、象潟などの記事は何度も推敲を重ね、筆者の高揚感を隠すことなく、事の本源本質へ迫る気迫で書かれた。時には歌舞伎の見得を切る舞台のように、芝居気さえ感じさせる強調高揚の文章も書かれた。
(略)
この道中記の旅人は、芭蕉その人ではない。芭蕉が造形した旅人である。旅人は折々に「予」と自称する。冒頭の「月日は百代の……予もいづれの年よりか」の「予」である。それは、永遠の時の流れを行く旅人である。「行春(ゆくはる)」から「行秋(ゆくあき)」に行き、更に「ふたみにわかれ行(ゆく)秋(あき)ぞ」と旅を続ける主人公である。(略)
そして、それはまた私小説の「私」のような「予」である。『ほそ道』の旅から数年の時間の中で、芭蕉は『ほそ道』を行く自分の姿を捉えている。
(略)
中央ではなく辺境へ、和歌ではなく俳諧へ、そして世界と俳諧の深き奥へ。その旅はそのような旅であること、そして、この道中記はそのように書き尽くされたということではなかったか。
(略)
歌の伝統と歌枕への捨て身の挑戦、天地・山河・天空との邂逅と刮目、訪れた土地の死者と生者の思いの集積である土地の本情との共鳴、行く先々に見えて来る西行の姿、そしてそれらと不可分に存在する俳諧のあるべき姿・・・・・・怒濤のように、また密やかに、この旅中自身に訪れたことを整理し、形を与え、更に踏み込み、はっきりと可視化しようとする、書くという行為に憑かれている芭蕉という一人の男の姿が忽然と立ち現れて来るように思える。
彼は彼自身のために決着をつけなければならなかったのではないか。それを、歌仙的な、道中記的な、俳諧的な、散文と発句と、歌仙的連続と非連続の絵巻の展開を、後世の研究家が三角形とも台形とも知覚幻視する、均衡と対称性のある全体構成の中に収めた。そぞろ神は芭蕉を旅に誘っただけではなかった。言葉で何事かを摑み取ろうとする、新たな旅後の旅に引き込んでいった。これは歌仙だけでも、発句だけでも、また散文だけでも、単独には表現できる世界ではなかった。俳諧道中記という総合的な形式が、そのことをはからずも可能にした。地理的な平面と伝統と時間の垂直線が交差する、立体的な文学空間の創造を可能にした。
芭蕉は、この旅で見たことをはっきりと言語で形象化して認識し、「見るべきもの」を見切ることを徹底しなければ済まなかった。はっきりと見るということと、精緻、微妙、深甚な作品形成とは別のものではない。明晰な作品構成は見たもの、見た世界の均衡と美しさを表しているに違いない。美しい世界はそのように書かれてこそ、全き形でここに存在する。そしてそれが出来れば、人間・松尾芭蕉の魂のざわめきはひとまず鎮まったに違いない。(略)
※
文学的な表現の形式(フォルム)という器を新たに創出して、そこにまったく新しい表現主題という内容(モチーフ)を盛るという意味での、真に独創的な文学的表現が、『おくのほそ道』によって打ち立てられたのだ、ということを、髙野公一氏は述べているようだ。西行とその旅と歌行脚に対する敬意を通奏低音のように響かせつつ、それを越えた新たな文学空間が創出され、後続のわたしたちに手渡されたという感動を、言葉の奥に秘めた文章であろう。
国文学者たちの文章からは、そのようなパッションは伺えない。類書の何篇かを既読しているので、髙野氏の論旨がそれらの知見とクロスすることは知っているが、髙野氏のこの著作のような形での感動的な想いで芭蕉の、この文学的偉業を受け止めてはいなかった。
そういう意味でも、本書はわたしにとっては新たな芭蕉の稀なる高い文学性についての開眼の評論である。
第2章 いざ、歌枕――田植うた・光堂・ねぶの花
「あとがき」の髙野公一氏による要約ガイドによれば、第2章~第5章から、旅程に添って陸奥路、出羽路、越後路、北陸道の旅程が検証されてゆくことになる。
この第2章がその陸奥路に当る。
髙野氏は次のように述べている。
※
陸奥への大冒険は、能因法師が歩いた陸奥を西行法師が辿ったように、西行法師が辿った道を芭蕉法師となって辿ることによって、自らの俳諧を西行の歌の世界、すなわち、西行、宗祇、雪舟、利久に貫徹するものにつながるものへと昇華させ、かつ、旅に生きた無住の西行の生き様を己のものとせんとすることを心に期していたに違いない。
(略)
それは心中の通過儀式であった。そして、この通過儀式のような叙述は、前半の陸奥路だけでなく、後半の北陸道の旅路にも多く見られる。このようにして、この一書の全編に歌枕の名が夜空の綺羅星のごとく輝いているのは見過ごせない。それは、この作品が様々なテーマを包含しながらも、全体として歌枕行脚の一巻としても整えられ、統一されていることを意味する。
※
当時の江戸俳諧的世界の外に出るために、歌枕の世界では先例のある先達の旅を模すこと、それを足掛かりにした、俳諧とっては未知の世界への旅立ちだったと、髙野氏は述べている。先達の模倣から始める旅ではあるが、芭蕉の中には既存の俳諧世界の外に出るという意識があったという眼差しがなければ書けない文章のように感じられる。
風流の初(はじめ)やおくの田植(たうゑ)うた
の句を引いて、髙野氏は次のように述べる。
※
素直に読めば、「おくの田植(たうゑ)うた」が「風流」だと言っている。「風流」は伝統的には「王朝的なみやび」であったはずで、鄙びた田植歌こそが「風流」とあるとするのは、本意の逆転がなされている。陸奥に近づき、関を越え、見続けて来て、そして須賀川においても見られた田植の風景と田植歌が真の「風流」であると言っている。「初(はじめ)や」に陸奥への初々しい挨拶の心がこもる。
このずらし逆転の鮮やかな叙述は、俳諧師芭蕉の歌枕「白河」に対する立ち位置を示している。すなわち、都から遠く離れ、都が恋しい、という歌枕の本情にあえて同じ発想の一句は重ねず、眼前の初々しい田植風景こそが新たな風雅であると、陸奥への朗々たる挨拶の一句を読者の眼前に提示したのである。陸奥の歌枕行脚の旅のその入り口で、芭蕉は伝統の重圧からの自由宣言とでも言える一句を記したのである。
※
芭蕉が模した先達たちの視座と、芭蕉の視座の違いは何によって生じたか。
そのことについても、髙野氏は次のように述べている。
※
旅人は、何百年も引き継がれてきた文学的世界とその場の光景の乖離と矛盾の中で、それをもたらす時間というものを凝視せざるを得なくなる。旅人は「時」という見えざる、しかし確実に存在する、その存在そのものに直面するのである。
※
この視点が他の幾多の「おくのほそ道」論とは違う、髙野氏だけの創見だといえるだろう。「壺の碑」での叙述を引いて、髙野氏はこう述べる。先達たちはそこに「無常感」を抱いているが、芭蕉のように「時」は観ていないのである。
※
壺の碑では、碑そのものが変わらずに「千歳(せんざい)の記念(かたみ)」として現存していて、それによって「眼前に古人の心を閲(けみ)す」ことができたことの感激を隠さない。
天地の流転の相に愕然と立ち尽くしながらも、永劫(えいごう)不変の「千歳(せんざい)の記念(かたみ)」「古人の心」を感得し得たとする、これらの歌枕体験こそ、時を経て「不易」と「流行」という言葉に至り着く、生々しい実感の原体験であったことを思わせる。
※
「おくのほそ道」体験が後の芭蕉の俳句観、俳句論の形成の布石ともなったことにまで視線が届いている論述である。そしてこの陸奥の旅が芭蕉にもらした文学的思想を次のように締めくくっている。
※
芭蕉は、俳諧を「西行の和歌における」高さに至らせることに挑み、その重圧の中に陸奥の旅路を辿った。そして、伝統的、観念的な歌枕の世界を、その土地の地霊ともエッセンスともいえるものを汲み上げて新たな詩の世界へ更新した。見えないものの中に眼前の実景を配した。その両者の照応融合の中に新たな詩の世界を現出させた。
風流の初(はじめ)やおくの田植(たうゑ)うた
五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂
象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花
この新しい詩性は時間軸に空間軸が重ね合わされ、その十字点に立つことによって可能になった。伝統的な歌枕の世界は慕わしく美しいものでありながら、なお眼前の、その土地の現実と本情をそこに重ね合わせることによって新たな詩の豊穣が生まれ出た。それは和歌の歌枕から俳諧の歌枕への変位といえる事件だった。
そして、そのような旅の体験を言語化することによって、明確に認識し尽くそうとする作業が、『ほそ道』の作品制作であった。
※
明快な創見である。
第3章 芭蕉の「天地」――雲の峰は幾つ崩れたか
この章では、この道程において、芭蕉の俳句がそれまでとは一変していること、この後の芭蕉が俳諧の理想とした「思想」に開眼したこと、その認識をもって『ほそ道』が、後日、文学的に編纂され創造されたことを、先行する論考にも目配りしつつ、髙野氏は論述している。
繰り返しになるが、髙野氏が本書で触れている先行する論考書のいくつかを、私もすでに読んでいるが、学問的な論証性に拘る緻密な論法による文体と、髙野氏の記述する文体は明らかに違う。同じことを論じている箇所もあるが、先行論考はそれを人間の言語表現行為という文学性を背負う熱量が先行論考にはあまり感じられないが、髙野氏の文体は文学的で、理屈で理解するのではなく、文学的に共感させられるという明確な違いがある。
芭蕉を語るとき、その姿勢こそが大切ではないか、と改めて共感する。
この章でも高野氏のそのような視座を感じさせる文章を引用する。
※
(略)立石寺(りっしゃくじ)も最上(もがみ)川(がわ)も通りすがりの名所景勝地探訪の形をとりながら、そこにはこれまでとは質量の異なった発句(ほっく)が掲げられていることに驚かされる。
閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蟬(せみ)の声
歌枕の揺曳(ようえい)も古人の俤(おもかげ)もない。能因も西行もいない。自然のありのままの姿、それを貫く久遠のひびきの気配が感じ取られている。それは、これまでの誰のものとも違う、またこれまでの芭蕉自身の俳諧とも違うもののように見える。
五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川
「いな船」の歌枕の場面にありながら、それを十分に知りながら、あえて恋を詠わずに、最上川の実景を提示する。
よく知られているように「涼し」の句座の挨拶性を捨てて、自然の様相そのままに「早し」としたことにより、芭蕉の俳諧は、あるものを投げ捨てて新たなものを摑み取ったのである。それは「句が良くなった」といった次元を超えている。
「歌枕を巡る旅」は出羽の国に入るにつれ、歌枕の胎内を抜け出して、大いなる自然の実相に直(じか)に面し、そこに新たな俳諧の根拠を求める視点を獲得し始めているかに見える。
出羽三山に向かうこの二つの場面で、芭蕉の筆は、芭蕉自身に起こった内的変化を象徴的に提示しているようである。歌枕や古人の姿を見つめ尽くした目が、見つめ尽くしたが故に、それらに引きずられたり、取り込まれたりすることもなく、そこを突き抜け越えて、眼前の天地自然のありのままの姿に至り着いたのである。
※
分析的な筆致で指摘する文体ではなく、髙野氏は、「歌枕の胎内を抜け出して、大いなる自然の実相に直(じか)に面し、そこに新たな俳諧の根拠を求める視点を獲得し始め」「芭蕉の筆は、芭蕉自身に起こった内的変化を象徴的に提示している」というように表現する。すぐれて文学的な熱量と共感性の籠った文体である。芭蕉の作品の変化だけを指摘する姿勢は学問的に正しいのだろう。だがその変化の内的な必然性の発見と共感こそが、このことを語る上で最も大切であることを、髙野氏は間接的に表明しているよう感じられる。
そのことは次の視点にも伺える。
※
(出羽三山)そこが修験道、擬死と再生の山であることを十分に知った上で、芭蕉がこの地を訪れているのは疑問の余地がない。芭蕉はなぜ、あえて三山順礼を強行したのだろうか。芭蕉自身も、曾良も、その理由を一言も語らず、出立前の旅の目的に触れた書簡にも出羽三山のことは書かれていない。ここを訪れることは初めから計画にあったかもしれないが、その場合でも例えば松島や象潟(きさかた)のようには重要視はしていなかったのだろう。旅全体の本質を左右するほどの重要な局面になったという認識は、『
ほそ道』の作成作業の中で最終的な確定したものに違いない。
(略)
『ほそ道』の旅は、実際の旅が終ってから、その旅を深く認識する旅が始まったに違いない。その認識の中枢に、「光陰=日月」と「天地」があったと思われる。
※
現代的な用語いえば、つまり『ほそ道』は「編集」というクリエイティブな認識的創造性の地平を含めての、文学的創作行為の結果、生み出された文学である、という視座が本書を貫いている。そこが他の先行する論考と違うのだ。
ではいったい何が芭蕉の内面の変化という「深まり」を促したのか。
髙野氏はそのことに踏み込んでゆく。
出羽路と越後路に書き込まれている発句を特徴立てている、万物を宿す「天」と「地」の表現に髙野氏は着目する。髙野氏が引いている句を以下に上げておく。
閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蟬(せみ)の声 立石寺
五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川 最上川
涼しさやほの三か月の羽黒山 羽黒山
雲の峰幾つ(いくつ)崩(くずれ)て月の山 月山
あつみ山吹(ふく)浦(うら)かけて夕すゞみ 酒田
暑き日を海にいれたり最上川 酒田
文月(ふみづき)や六日(むいか)も常の夜には似ず 越後路
荒海(あらうみ)や佐渡によこたふ天(あまの)河(がは) 越後路
この引用句について、髙野氏は次の様な筆致で評している。
※
宇宙の静寂そのもののような蝉の声、眼前の濁流の大河、涼やかでやさしい三か月、月に照らされた月山と崩れては立ち上がる雲の峰、大景を一望しつつの夕涼み、海に入りゆく夏の太陽、七夕前夜の夜空、日本海と銀河の出会い。様々な「天地」の相貌が、大きく強く、やさしく、静逸に詠われている。これだけの「天地」的発句が出羽とそれに続く越後の章に書き込まれているのである。
※
この的確で詩情豊かな要約的鑑賞文の文体にも髙野氏の視座が表れている。
特に「雲の峰幾つ崩て月の山」の句を巡っては、次のように評している。
※
句の出来た場所の論議は私にはさして重要ではない。「雲の峰幾つ崩て」は眼前の情景でありながら、同時に「見えない眺め」も詠っていると感じられることの方が肝心であると思われる。この句には遥かなるもの、悠久の感じがある。(略)悠久の時間の流れの中で、幾つも雲の峰が湧き、崩れ、そして変わらぬ月山がある。その月山も雲に隠れ、雲が崩れてその姿を顕し、時には月光を浴び、文字通り月の山となり、刻々見た目の姿を変える。雲の姿は変わり、月山の眺望も変化する。しかし、月山はそこにあり続け、雲が湧き、崩れる、その営みは太初から続き、いつまでも変わらない。(略)
この一句を見るに、芭蕉自身、ここに、変化するものと、その変化を受け入れている天地そのものの姿を、その全(まった)き一体として、眼前の一風景の中に、詩的なイメージとして捉え得たと確信したと思われる。その意味で、この一句がまさに芭蕉の新たな天地観・人生観を暗示していると言えるのではないか。変化と不変が一如となって把握されているのではないか。
そこから、「天地流行の俳諧」「天地固有の俳諧」などの言葉が生まれて来たに違いない。(略)
※
「見えない眺め」も詠っている、という高野氏の指摘は重要だろう。実景に境涯的な詠嘆の思いを託すという和歌的な表現とは一線を画す、情念の詩的形象化という象徴詩的な表現論で、『ほそ道』を論じている視点が提示されているように感じられる。
「天地流行の俳諧」「天地固有の俳諧」は、ただ実景を眺めて詠む受容型の詠法ではなく、そこに「変わりゆくものこそ不変であり」「変わらないものこそ流動の中にある」という世界観、思想レベルの詩念を形象化する創造行為的な詠法だろう。それは現代にも通じる詩的表現論である。芭蕉は「近世」に置いて現代に届く表現論を打ち立てているという主張だろう。明治期という「近代」はそれに逆行して「写生」という受動的詠法、表現論へと退行したのではないかとさえ思いたくなるほど、この髙野氏の芭蕉の詩想論は現代的に感じられる。
さらに髙野論文に瞠目されられるのは、芭蕉が自己を客観化し得ているという視座を提示している点である。それはこの章の末尾の方に記されている次のくだりだ。
※
芭蕉は旅にある俳諧師である自分の姿を戯画化して描くことを好んだかに見える。(略)自己の戯画化は自己救済の試みであったかもしれない。しかし、それはただそれだけのものだ。見えてしまった悲しみはそれで消えるものではない。俳諧師芭蕉は俳諧師になり切れない自分を時には持て余した。(引用文、略)
あえて三山の順礼に赴く芭蕉には、俳諧師でありながら、俳諧師にとどまり難く、「一たびは仏籬(ぶつり)祖室(そしつ)の扉(とぼそ)に入(い)らむとせし」人の後ろ姿が見え隠れする。それでいながら、俳諧師であり続けることを選び抜いた生身の人間の素顔が見える。矛盾と葛藤を生きることを覚悟した、愚かさと悲しみの自覚こそ、それまでの俳諧の世界を打ち破り、新た地平を拓いていった力だったのではなったか。その営みの中で三山順礼があり、宇宙天地への覚醒があった。李白の時間論・天地論を全きままに詩的映像に捉えることが出来た。
(略)
『ほそ道』という文学空間に「順礼」と芭蕉が書いた時、それは、彼自身の「死と再生」の物語の真実をしかと把握したということであるのだろう。明らかに新たな天地観、新たな俳諧の出発をもたらした順礼であった。
※
余談になるが、日本の前近代には西洋文明でいうところの「主体」とか「自我」の認識はなく、そのような意識の中では自己を客観視するという視点は生まれない。
だが近世人の芭蕉はそれを持ち得ていたと高野氏が指摘しているのは驚きである。明治期の「文明開化」の流れの中で洋風化する生活と慣習の中で、近代的自我というものが芽生え、その慣れない「自我」の苦しみを描いたのが夏目漱石の近代小説だったとするならば、自然と自己という対峙的観念を持たず、ただその中で生きている感性だけの前近代人には、そのような「自我的」苦しみは発生しようがなかっただろう。前近代の近世人である芭蕉が、自分という個的な命が剥き出しの宇宙、自然と対峙しているという緊張した視座、自己を客観視できる視座を獲得したが故の、現代にも通じる「詩論」を打ち立て得たと、髙野氏は主張しているように感じられる。
確かに、そのような自己認識のないところに、自然の中にある命を基調に置く「詩論」は生じようがないだろう。
そのことを指摘している点でも、この髙野論文は画期的ではないかと思われる。
第4章 天空の越後路――芭蕉は荒海を見たか
この章について私は先にこう紹介した。
※
「天空の越後路」は第三十五回現代俳句評論賞(平成二十七年)を受賞した評論である。/私は(略)協会誌「現代俳句」誌上で読んでいて、本書にて全体の章の中に置かれた形で再読した。/受賞作を詠んだときの、瞠目の印象を憶えている。評論文なのに、文学書を読んだような作者の内なる文学的主題への、熱い情熱を感じた。
※
芭蕉が『ほそ道』の作品としての最終形を創造するにあたって、実際の旅の記録を大胆に省略しているのが、特にこの「越後路」の章である。そのことが、新たに発見された資料によって明らかにされてきている。その資料をもとに、その「省略」の意図について先行する研究者や評論家たちが、さまざまに言及している。
髙野氏はそれらも俯瞰的に紹介しつつ、独自の視座を示している。
その提示の方法と文章が、文学的なのである。他のどの先行評論文でも味わえない、文学的本質に迫る表現なのだ。私が瞠目した文章を以下に摘録する。
※
旅の目的がひとまず達せられた満足感と同時に、芭蕉はまた旅というものの不思議さを思わずにはおられなかった。旅には思いがけない出会いがある。そして、この度の旅での最も大きな出会いは山河日月、天地天空そのものであった。それらが時に音となり、動きとなり、光となって、眼前に立ち現れ、芭蕉はそれらを全身で感受したのである。(略)
酒田の静かな日々の中で、芭蕉はこの旅のもたらしたものが、天地そのものとの生々しい邂逅(かいこう)であり、自身の天地観の深化であり、新たな俳諧の出発への確信でもあることを改めて思い定めていたに違いない。
※
「天地観の深化であり、新たな俳諧の出発への確信」と髙野氏自身が述べているように、その視座は他の先行論文と違って、あくまで文学創造論的な視座なのだ。
次の文は韻文表現が文学的地平を切り拓き、独自の創造的文学空間で立ち上がってゆくときの、まるで心的ドキュメンタリーのような陶然とする表現である。
※
この断固として徹底的な「省略」には、越後路そのものの本情に起因する積極的な意匠が隠されていると思われる。
消去し、省略をし、そこには何も残さない。それはどういうことなのだろう。結論を言ってしまえば、芭蕉は思い切った全的な消去・省略によって大きな「無」、あるいは全き「闇」をそこに生み出したのだと思う。それは、身の回りで起こっている日々の一切合切を消し去ってしまった後に生れた暗闇である。旅にある自分の身辺雑事のみならず、人界に起こった全てを無とした後の沈黙である。それは、つまるところ、越後路の空間と時間の現実のすべてをぬぐい去って大きな暗闇と化してしまったということである。そして、その暗闇の真っただ中に、
文月(ふみづき)や六日(むいか)も常の夜には似ず
荒海(あらうみ)や佐渡によこたふ天(あまの)河(がは)
の二句を立てたのである。
その瞬間、その暗闇はたちどころに夜となり、夜空となり、天空となり、宇宙となった。
この沈黙の宇宙に、二つの句の下で、星の恋が灯り、人間の孤愁と憧憬が立ち上がり、海が躍動し、咆哮し、銀河が生まれ輝き、それら一切が交響する、その絢爛の座としての暗闇の創造こそ、激しく徹底した省略の意匠であった。省略によって生み出された、この暗黒に屹立する、この二句の美しさは、その暗黒故にいよいよ光輝を増すのである。
暗闇、それは「光」を生む「闇」であり、「音」を生む「黙」であり、「有」を生「無」である。そういうものの総体としての暗闇が、徹底した省略によって生み出されたのである。
全てが生起し帰結する悠久。その無限と沈黙。これは芭蕉がすでに出羽三山で見たものであった。
※
現代の俳句論で、「俳句は省略と沈黙の文学である」、そしてその「沈黙は作者個人各々の人生的な思惟のみならず、人類的な集合的無意識という広大な思惟をも背後に背負うものである」という考え方は、俳句を文学であると見做す者に共有されている認識である。短い俳句が文学たり得るには、身辺雑事の境涯詠に留まっていては不可能である。そこに個人的な感慨を突き抜けた普遍性を獲得できる象徴的な構えを必要とし、最終的にはその「詩」のような象徴性すら省略的表現によって突き抜けてゆく独特の表現の地平を一句毎に創造してゆかなければならない。まさに言語表現としての「無」の状態から、俳句という自立した表現という「有」を生み出さなければならない世界なのである。
そういう意味でも、髙野氏のこの文章は、
荒海(あらうみ)や佐渡によこたふ天(あまの)河(がは)
という句の優れた鑑賞・評文であるにとどまらず、そのような一つの文学的俳句表現論でもあるかのような文章である。
私が評論賞受賞作の段階で読んで陶然としたのは、まさにこの点である。他の先行論にはそれはない。
次の箇所の文は、もっと踏み込んだ俳句創作論としても読める。
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芭蕉は越後路の長い時間、句を案ずるとは、感受したものを言葉で、言葉と言葉の組み合わせで、摑み取ろうとすることであった。言葉の組み合わせによって、感受しつつも見えないものを形象化することであった。句を案ずるとはそういう感受から形象化を経て認識へ進む行為に他ならない。その行為を海と空に思いを馳せながら執拗に続けたのが越後路であった。
このようにして成ったが故に、越後路の本意は「荒海や」一句に収斂凝縮されたといえる。また、それ故に越後路の見聞の一切の叙述は不要となり、むしろ邪魔になった。この句以外に必要なものは何もない。
海を背景に天空を感じ続けて歩いた越後路という旅路は、天空を自らの存在に沁み通らせる時間であった。それは、あたかも天空を行く旅路のようであった。
※
私がこの髙野氏の論考から、評論を越えた、俳句文学論的な文学書のような感銘を受けた理由が、この引用文だけでも了解いただけるのではないだろうか。
それは他の先行する『ほそ道』論からは決して受け取れない、髙野氏の独創性であろう。
まさに『ほそ道』はこのような視座と文学的文体をもって評されるべき文学作品だったのだ。
第5章 萩と月――踵の痛踏み終えて
この章は『ほそ道』北陸路と最終章の「種(いろ)の浜」に至るまでの内容についての評である。髙野氏はここまでの一貫した文学的な視座で、この章も次のように締めくくっている。
※
(略)この旅が西行の踵(きびす)の痛さを我がもののとせんとしたものであったが、考えてみれば、かつて西行は遠く仰ぎ見、時には脅迫観念さえ与えかねない存在であった。それが今やあたかも芭蕉、そして、この章の主人公の心の底で共に楽しみ共に寂しがる存在として感じられている。西行の内在化とでも言おうか、種の浜でますほの小貝と戯れるのは、西行であり、芭蕉であり、芭蕉の心の中の西行である。
西行の物語を底に置いた「萩と月」で始めた北陸道の物語は、同行二人的な月見西行の含蓄を経ながら、西行世界とは異なった月の世界に至った自らを見つめつつ、最終章の種の浜ではそのようなことが可能になったことも含めて、いわば西行との和解のような安らぎの中で、一巻が閉じられてゆく気配である。そして、曾良がそこに居ないことによって、芭蕉―西行の同行二人的精神世界はより徹底されたようにさえ感じられるのも否定出来ない。
(略)
芭蕉は西行の踵の痛さを体得しようとした旅を終え、追いかける踵もない、「行く人のない」道を新たに踏み出したように見受けられる。その新たな旅の道程で、その新たな旅の始まりを得させてくれた旅の意義の仔細を改めて問い直し、言語化の作業を通して、自らの心にその曼荼羅図(まんだらず)を可視化する作業を終えたのである。
※
このようにして、髙野氏は芭蕉が独自の文学観に覚醒したと論じている。
芭蕉にとって『ほそ道』の旅は、その終着点が終りではなく、独自の俳句文学観を確立してゆく、新たな始まりであったように、髙野氏の本書の精神的な「旅」は終わらない。
芭蕉の代表的な俳句観とされる、不易と流行などに至りつくまでの検証を、髙野氏は以下の章で始めている。
これまでのように、各章の主旨をめぐって詳述すると、読者が「読んだ気」になってしまうことを案じるので、以下の章についての言及は控えたい。
本書の魅力のもっとも大切なことはすでに述べ得たと思う。
この紹介文で、大方の読者はさらに興味を持たれたと思うので、後は是非、自分で購読していただきたい。
第6章~第7章 「書留」から『ほそ道』へ/行く道・帰る道
第8章 歌仙の時
この二つの章は、発句と歌仙を詳細に検収して、『ほそ道』との重なり、離れ具合の間に、芭蕉の精神性、実像を浮き彫りにする論考が展開されていて圧巻である。
これはこの書を読んでいただかないと、紹介文としては伝えにくいので、以上の紹介に留めおく。
第9章 天地とともにある俳諧
この章は本書の結論部であるだけに、その紹介には慎重を期す必要がある。
読者に「読んだ気」になってもらうのは困るのである。
『ほそ道』で芭蕉が体得し、その後の歳月で磨きをかけたという俳句文学観、不易流行の成立過程を、髙野氏は弟子たちの論ではなく、僅かな資料の中の芭蕉の「直接話法の記述」を見出そうとしている。
そして今でも古びることのない、普遍的な俳句文学観、文学論としての価値を、髙野氏自身の視座で論述している。
その姿勢こそ、私たちが学ぶべきことだ。
芭蕉研究者なら、事実の発掘と論証だけでいいかも知れない。
だが、髙野公一氏のように、俳句を実作し続けている俳人ならば、『ほそ道』を通して語るべきことは、その現代的意義、そして個人的な次元にそれを降ろしてきても、なお普遍性が失われない「価値」、俳人である自分自身にとっての文学的価値についての視座こそが大切ではないだろうか。
そういう意味でも、数多の芭蕉論、『ほそ道』論の中で、その視座を堅持して書かれた本書から、深い感銘を受けたことを述べて、この紹介、評文を締めくくりたいと思う。
繰り返しになるが、本書の結びのことばを最後にもう一度、再録しておこう。
※
芭蕉の「不易流行」は世界観であり、俳諧観であった。その一体性の認識であった。新しくかつ時代を越えてゆく俳諧こそ、芭蕉が追い求めてきたものであった。その秘儀を悟り得たのは旅の賜物だった。そして、それは冷静な「論」よりは元来、どこか喜びの「信仰告白」に似ていたはずだ。「形而上的理念」「宗学の論理」や「指導方針」である前に、それは覚醒の喜びであった。それを胸底に「われ見たり」「われ知りたり」と芭蕉は弟子たちに語り始めたに違いない。
去来や土芳の伝える「絶対矛盾」ともいえる「師の言葉」は、求道者芭蕉の覚醒の喜びを加味して読みたいと思う。
※
実際に本書を読み、各自がそのことについて深く考える契機として頂くことを願っている。
―― 了