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映画「ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り」レビュー「『映画』にはッ!『頭をカラッポにして楽しませる』より…一生心に刺さって抜けない『棘』の様な…未来永劫忘れられない酷い酷い酷いトラウマを植え付けて欲しいのだ…」

「ダンジョンズ&ドラゴンズ」(以降「D&D」と表記する)は
1974年に誕生したゲームで参加者は様々な種族や職業を選んで
パーティを組んで罠や怪物の待ち受ける危険極まりない迷宮や
フィールドを探索する「成り切り遊び」が高度に洗練された内容であって,
剣を振るったり,魔法を唱えたりした成否は
ダイスの出目次第といった卓上ゲームの一形態ですね。

自分に割り当てられた役割を演じる(=ロールプレイ)ゲームである事から
ロールプレイングゲーム(以降RPGと表記)とも呼ばれてます。
公式HPを参照すると必要なのは
1.想像力,
2.特殊なダイス,
3.気の合う同好の士
の3点だけ,
と書かれてますが同好の士を集め,スケジュールを調整して
決められた場所に集合するのは如何にも大ごとで,
尚且つ各行動に於けるダイスによる成否の確率判定は大変そうに思えます。

そこで誕生したのが「ウィザードリィ」などのコンピュータRPGで
面倒な確率計算は機械がやってくれ,
何よりひとりで遊べる気楽さがRPGの敷居を下げてます。

反面例えば6人パーティを組んだとしても本質的に人格は1つであって,
パーティ内で話し合って次の行動を決める醍醐味は失われており
一長一短があるのですよ。

話を戻しますとD&Dは同好の士とワイワイガヤガヤしながら冒険を楽しめ,
知恵を出し合う事で苦境を切り抜ける妙案が出て来る
「弾む会話」と「思慮の深さ」が試されるゲームなのです。

さて肝心の映画「D&D」に関してですがメインの4人パーティの編成は
観客が決められませんし,迷宮内の意思決定にも参与出来ない,
言わば「他人のロールプレイを傍から眺めてる」趣があって
ゲーム「D&D」が好きな方ほど,「自分だったらこうするのに」とか
「僕だったら右の道じゃなく左の道を選んだのに」
と言った隔靴掻痒感が宿命の様に付き纏う事が予想され
案の定公開された映画の出足は鈍かったのですが
映画を観て来た方がSNSで感想を発信され,それが概ね好意的であり,
映画「D&D」の上映映画館・上映時間がみるみる縮小され,
GW向け映画に道を譲っている状況を歯噛みする思いで
懸命に「布教」されてたのが心に響き,僕も映画館に向かった次第です。

本作の主人公はトレジャーハンター(盗賊)で吟遊詩人なのですが
最愛の妻を亡くし,その妻に生き返って貰う為の石板を捜す探索行で
ドジを踏んで相棒の女蛮族と共に脱出絶対不可能と言われた監獄に
囚われてる所から始まり,
最初の冒険は相棒と共にココを脱獄する事となります。

無事脱獄したふたりは主人公の娘を探し出し,会いに行くのですが,
どうも娘の態度が余所余所しい。
そこにかつての冒険仲間が娘の養父として登場し,
そのかつての仲間は迷宮で発見した宝で金持ちとなっていて,
主人公は永久に監獄で過ごすべくドジを踏むべく
画策されていた事を悟る…。
勿論裏切り者はタダじゃおかないし,
ある事ない事吹き込まれた娘も奪回し誤解を解く…
が主人公のメインチャレンジとなります。

本作が人気無いのは分かるのです。
ゲームの「D&D」の売りは
「貴方が主役で貴方の一挙手一投足が話を紡ぐ」
なのに映画の「D&D」の主役は「貴方じゃない」。

主人公が与えられた手札を吟味して次の行動を決める件は
本来「プレイヤーの思慮深さ」が試される場面なのですが
「思慮深いのはプレイヤーではなく主人公である」と言う
コレジャナイ感が感情移入を妨げてるのです。

ゲームを映画化する難しさの根源は
「主人公が自分じゃない点」に帰着するのです。

脚本は良く練られていてパーティ4人それぞれに
克服すべき課題と課題達成のカタルシスが用意されている。

敷かれた伏線は時間内に全て回収される。

有体に言って非常に出来の良い脚本と言えるでしょう。
でもさ。問題点がふたつあります。

先ず先に述べた通り映画で描かれてる人生は「自分の人生」ではなく
所詮自分が選択出来ない「他人の人生」であるって事。
これはね,ゲームの映画化に付き纏う宿命的な欠点なのです。

要するに「ドラゴンクエスト ユアストーリー」で
「これは貴方の話です」って言われても
「いやいや…これは俺の話じゃねえし」ってなるじゃん。
それを我が事の様に受け止めるなんて無理じゃん!
って話なんですよ。

もうひとつの問題点は脚本として非常に出来が良く率(そつ)が無い事が
「映画として素晴らしい」事と本当にイコールなんだろうかって事。

そもそも創作物って「何をどう描いてもいい自由奔放な形式」だった筈で,
ましてや本作は剣と魔法の世界で自由に想像の翼を広げられる筈なのに
本作と来たら敷いた伏線を全回収して
主要登場人物の鬱屈が解消されて目出度し目出度しで
観客が遊園地のアトラクションを終えた後の様に
家族揃ってニコニコしながら
「ああ面白かった!」と屈託の無い調子で顔を赤らめながら
映画館を後にする事を唯一絶対の目的としてて
僕としては「何でえ!?」と叫びたくなるのである。

後にモヤモヤが何も残らずスッキリする事
が映画の唯一無二の製作目的なのだろうか。

Amazonレビューを読むと
「何も考えずに楽しめました」
「頭をカラッポにして楽しめました」
「ああ楽しかった!」
のオンパレードで…まるで楽しい夢を見た子どもの様…。

僕はなあ。
子供じゃねえんだよ。
「考えてえ」んだよッ!
「疑問を持ちてえ」んだよッ!
「考えねえ人間」は「疑問を持たねえ人間」はッ!
「人間じゃねえ」んだよ…。

「映画館」が!
「何も考えねえ人間」を量産する製造機に成り下がり…
「楽しむ」コトだけが
人生の唯一の目的と思い込まされているディストピアと化しているッ!

寧ろ(むしろ)例え脚本が破綻してても映画としてブロークンであっても
誰かの心に棘の様に突き刺さって血が流れて痛みに苦しみながら
「こんな映画観るんじゃなかった」って
後悔がその後ずっと続く様な酷い酷い映画を
僕はずっと追い求めて来たのではないか。

要するに観客の心に何のトラウマも与えない様な映画は
落第点なのではないかと言いたいのである。

観客をハラハラドキドキさせて
「感動の涙が止まらない」とか「ポカポカ温かな気持ち」にさせる事だけが
映画の目的ではないと思うのだ。

僕は!映画を観て名状しがたい「嫌な気持ち」になりたいのだ。
酷い酷い酷い地獄が見たいんだッ!

例えば本作で言えばさあ,主人公と娘の不和が決して解消せず,
映画終了後もずっと続く事が予感させられるとか,
魔法使いに刺された相棒の女蛮族がアンデッドになって生き返るとか,
ハッピーでない終わり方を指向しても良かったのではないか。

だって現実は思うに任せずハッピーじゃない事の方が多いのだから
映画もそうした世情を反映して苦虫嚙み潰した様な形相になって
映画館を出て来る様な映画があっていいじゃん。

そんな映画だからこそ我が事の様に受け止められ,心に刺さるのだと思う。
創作物が!
観たり読んだりした人間の心に何の爪痕も残せなかったとするなら,
その創作物を僕は「失敗作」と呼ぶ。
本作もまた1年後,5年後,10年後に振り返ったとき,
決して思い出される事が無い故に「失敗作」と呼ばざるを得ないのである。

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