エドガー・アラン・ポオの「赤死病の仮面」レビュー「オタクの夢を叶える短篇小説です」。(再投稿レビューです。)
小説家エドガー・アラン・ポオは
最初の推理小説と呼ばれる「モルグ街の殺人事件」
ゴシックホラーの祖「黒猫」
暗号解読の魅力に満ちた「黄金虫」
死んだ人間が埋葬された棺の中で
息を吹き返す恐怖を描いた「早過ぎた埋葬」
奇想天外な冒険小説「メイルシュトロームの大渦巻」
等々後世のミステリ・ゴシックホラー・
冒険小説に多大なる貢献をしていて
江戸川乱歩(エドガワランポ)も
エドガー・アラン・ポオから取ったペンネームなのだ。
僕がここで取り上げたいのが
オタクの夢を叶えた「赤死病の仮面」なのだ。
そもそも「オタクの夢」って一体何なんだろう。
「オタクの夢」とは自分の好きな漫画・好きな小説・
好きな円盤・好きな音楽・好きな食べ物を貯め込んで
自分の部屋に立て籠って好き勝手に生きる事であって
「他者」とか「外の世界」なんか知ったこっちゃないのだ。
「赤死病の仮面」では体中の毛穴から血を流して死ぬ
「赤死病」が国中に蔓延する中にあって,
プロスペロ公は食糧と飲料(酒)を貯め込んで
門戸を閉ざして籠城し,
毎日宴会を開いて面白可笑しく暮らすのだ。
しかし「死」からは逃げられない。
宴会会場に奇妙な仮面の男が現れ,
プロスペロ公はその男に「仮面を取れ!」と命じる。
仮面の向こうには「虚無」が広がっており,
プロスペロ公が全身の毛穴から血を流しながら倒れ,
宴会に参加してる者達もバタバタと倒れて行く…という内容の短篇小説だ。
「オタクの夢」には「続き」があって
オタクには「この世の終わり」が来て様々な社会通念がチャラになって,
朝早く起きて通学したり,通勤したりする「苦行」が終わる夢がある。
そして「この世の終わり」を眺めながら
好き勝手に生きる絶頂の際に
「死」が自分を苦しまずに殺してくれることを望んでいるのだ。
小説家のステーヴン・キングは畢竟の名作「シャイニング」の中で
度々「赤死病」を引用する程のファンであるし,
映画監督のジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」はゾンビ禍が蔓延する中,
物資の豊富なショッピングモールに立て籠もって面白可笑しく暮らし,
最後に「死=DEAD=ゾンビ」が侵入してくる所まで
「赤死病」と「同じ」なのだ。
「ゾンビ」の熱狂的なファンのひとりが
「オタクが籠城して「世界の終わり」を眺める話」
と粗筋紹介してるのも,
この熱狂的なファンが熱狂的なミステリ・ホラー小説ファンでもあって
念頭に「赤死病」がある事は疑い様もない。
僕は小学生の頃,「赤死病」のコミカライズを読んでからというもの
勿論その頃はオタクではなかったけれども,その世界観に魅了されていた。
僕は部屋に籠って本を読んでいる内向的な少年で
読書中に雨が降ると頁を捲る音と雨音だけが
世界と自分とを繋ぎ留めている状況に堪らなく興奮していた。
「オタク的素養」は十分にあった訳だ。
「読書」は如何なる不道徳な内容であろうと
親には「勉強してる」と見做され,
堂々と江戸川乱歩の「芋虫」「人間椅子」が読めて,
ついでに国語の成績も良くなって親の覚えが益々良くなる
「利点」しかない完全趣味だと愚考する次第である。
「赤死病の仮面」はロジャー・コーマンによって映画化もされている。
「赤死病」のビジュアル・イメージの顕現として素晴らしい内容だが
ソレ以外には特筆すべき点がなく…
映画に「美術」以外に「話」を求める向きには
恐らく退屈に感じるだろう…。
しかし…「退屈」なのはコーマンの責任ではなく…
そもそも「籠城」と言うのは立て籠もってからは「退屈」であり…
「戦争」でも「死」でも構わねえから
この…「耐え難い退屈」を終わらせてくれッ
と籠城者が乞い願う様になるのが「籠城作品」の定石と言えるのだ。