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セルジュ・ブールギニョン監督の映画「シベールの日曜日」レビュー「『純愛』とは斯くも多大なる『維持費』を必要とするものなのか…」

ピエールは過去の記憶を失うほどの深手を受け病院に担ぎ込まれ,
それが縁で看護師マドレーヌと同棲している。

彼自身も「鳥籠作り」という職業に就いてはいるが,
その実態は「職業」というよりも「記憶を失った,かわいそうな子」に対する
職能取得のための「訓練」に近く,したがって彼の収入は皆無であり
専らマドレーヌの収入に依存しているのが現状である。

そんな彼が偶然父親に引っ張られ無理矢理寄宿学校に入れられた少女と
逃げるように列車に駆け込み去って行く父親を目撃する。

なぜか彼女のことが気になってならない彼は学校の門前に立っていると
運送屋が門前の呼び鈴を鳴らし中に入って行く。

彼は校舎外のベンチに「お出かけ」の支度をして,
ひとり座っている彼女を目撃する。

彼を彼女の父親と勘違いした教師が「フランスワーズ」と彼女に呼びかけ
その身柄を彼に預け門限を守るように指示してその場から立ち去る。

学校の決まりで生徒たちには日曜日に
家族との面会と外出とが許可されているのだ。

彼女は饒舌で「フランソワーズ」は彼女の「真の名」ではなく
学校が勝手につけた「通り名」だという。

実の父親が自分を捨てて去って行った事実を知った彼女は泣きべそをかくがやがて彼に抱きつき父親のふりをして
毎週日曜日に自分を学校から連れ出して欲しいと懇願する。

彼はその懇願を聞き入れ約束を守るよう誓うのであった…。

ピエールと「フランソワーズ」との交流はマドレーヌとのそれとは異なり
あたかも「ふたりの子供」が冬の池の周りを戯れながら談笑しながら
散歩する,といった体裁を取っている。

彼女は彼と同棲しているマドレーヌのことを「奥さん」と呼び
「あと6年たって18歳になったのなら私たち結婚できるわね」
などとドキリとすることをさらりと言ってのける。

彼女は自分自身を「婚約者(フィアンセ)」と位置付けているのだ。
「奥さん」というものがありながら「婚約者」とは
一見奇妙な論理ではあるが彼女の思考回路の中には
「奥さん」に対する嫉妬心は微塵もなく
同時に自分が「婚約者」であることに対する矛盾も疑問も一切ない。

一方彼にとっての彼女とはどのような存在なのだろうか。
ふたりがいつものように池の周りを歩いていると彼女と同い年くらいの
少年たちが背後から駆けてきて「一緒に遊ぼうよ」と声をかけてくる。

途端に彼は言語化できない衝動に駆られ
少年たちのひとりの頬をぶってしまう。

ぶたれた少年は近くにいた親に言いつけ彼女からは
「あんな真似するなんて!」
と泣かれ彼はしどろもどろになってしまう。

彼女の機嫌を取るためもう二度とあんな真似はしないと約束する。
だがしかし本作品において「約束」とはただ破られるためだけに存在する。

彼女と逢える折角の日曜日に知り合いのパーティがあり
世間の義理を果たすためマドレーヌに懇願されて彼はパーティに出席する。

だがしかし「知り合い」といっても過去の記憶のない彼にとっては
「縁も所縁もない人たち」に過ぎず
常に念頭にあるのは彼女と逢うことだけだ。

時間が…彼女と過ごす大切な時間が切り刻まれてゆく…。
遊園地のゴーカートでマドレーヌと遊んでいても当然気もそぞろ。

マドレーヌがもたれかかってきたのがすこぶるうっとうしく
思わず彼女の顔面を鉄拳で殴り…
こともあろうにその場面を教師に引率されて遊園地にやって来ていた
「フランソワーズ」に目撃されてしまう。

今すぐにでも「フランソワーズ」の元に向かい弁解しなくては!

いやいやいやいや!
オマエおかしいだろ!
先ずマドレーヌの身を案じろよ!

…世間様から見れば彼の行動は常軌を逸しており
「フランソワーズ」にとってもあの日あの時あの場所で彼と交わした
「約束」とは一体何だったのかと当惑せざるを得ない。

彼のこれらの衝動これらの感情は愛だの恋だのといった砂糖菓子のような
どのような美辞麗句をもってしても決して収まりがつかない。

彼にとっては「フランソワーズ」が世界の全てであり
この世界に介入するものは子供であろうが女であろうが
断じて容赦できないのだ。

アーシュラ・K・ル=グウィンの「ゲド戦記」において魔法使いには
「通り名」と「真の名」のふたつがあり当然大切なのは「真の名」であり
万物の「真の名」を知ることが魔力の根源であり
逆に「真の名」を知られることは急所を晒すに等しいことなのだ。

言い換えれば相手に「真の名」を明かすことは
相手を心から信頼しているという最高の信愛表現でもあるのだ。

本作品における「魔法使い」とはすなわち「フランソワーズ」であり,
彼女が放った石がふたりの映った池の水面に波紋を起こすのも
彼が遊園地の占い師から無断拝借した剣を彼女が木の幹に突き立て
木々の囁きを聴くのも彼の魂に明かりを灯すのも
これ全て皆彼女が彼だけにかけた「魔法」なのだ。

そして…クリスマス・イブに
彼女が彼に明かした「真の名・シベール」こそが
聖夜に相応しい最高の贈り物であり
同時に2度と解除できない究極の魔法でもあるのだ。

Amazonレビューを読むと…
「ピエールをロリコンと呼ばないで欲しい」とある。
「ピエールとシベールの心の交流は…」
「決して肉欲に汚されない『純愛』なのだ」と。

あのさあ…
そんな理屈が通るかボケェェェ…。
ロリコンってみんな…「同じ言い訳」するね…。

仮に…成人男子と12歳の少女の交際を「純愛」と呼ぶとするなら…
その「純愛」の為なら…
12歳の少女との逢瀬に遅れそうだからってんで…
自分を養ってくれてるオンナの顔面に鉄拳をお見舞いして…
逢瀬に走って向かうんだ…。

そういうのは…「純愛」と呼ばすに
「変態のロクデナシの恩知らずのクソ野郎」
と…僕は呼ぶね…。

兎に角さあ…「純愛」を維持すんのに
周囲の人間に迷惑かけてるコトへの反省がひとっ欠片もない。
僕は…全責任をかけて…
「変態のロクデナシの恩知らずのクソ野郎」
のコトを略して「ロリコン」と断言する。

「ロリコン」は…決して「純愛」ではなく…
世話になっているオンナの顔面を殴るコトで成立してる
「歪んだ愛」なのだ…。
コレで…「肉欲」が付与されたら…
到底言葉には出来ない罵詈雑言が並ぶ事となるだろう…。

12歳の少女と…挙動不審の男の交際を許容する社会などないし…
そんな社会は断じて構築してはならないのだ。
12歳の少女と…
記憶喪失で…子供並みのオツムで…挙動不審の成人男子の…
「双方の同意」を…許容する社会などないッ!

ピエールとシベールの「純愛」とやらは…
世間からは一切認知されず…
「悲恋」に終わるコトとなるが…。
シベールに対しては憐憫の情が湧くものの
ピエールに対しては…
「自業自得じゃボケッ」
以外の感慨は一切沸かない…。

だってオマエ…「人の心」が…「思い遣りの心」がないんだもの…。
「純愛」とは斯くも身勝手で…周囲の人間を巻き込んで…
「地獄」を顕現させて行くのか…が僕の感想の全てとなる。

この映画を…ピエールとシベールの…
「純愛映画」と呼ぶのは…
ひとりの例外もなく「男」であり…
「12歳の少女と交際したい」
との変態的欲求は「男」特有のモノであり…
「女」にそうした欲求はなく…
従って「女のロリコン」がいないのもまた道理と言える…。

成人向け漫画を「楽しむ」のが専ら「男」である様に…
本作を褒めるのが専ら「男」であるという事実が…
成人男性と12歳の少女の逢瀬を
「楽しむ」のが専ら「男」であるという事実が…
本作の「本質」を良く表しているのである…。

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