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自己紹介:不登校経験から大学院進学まで

幼稚園(登園拒否)→小学校(不登校)→私立中学(不登校)→公立中学(不登校)→定時制単位制高校→大学→大学院(←イマココ)

Twitter開始から2ヶ月、フォロワーさんも増えつつありますので、僕がこれまでどんな経験をした、どんな人間なのかということを、書き記しておきます。

名前はむらさきと言います。リアルでもネットでもむらさきさんです。
23歳、福岡県出身、4人兄弟の3番目。平成7年生まれ、いわゆる奇跡のフルゆとり世代です。(だがそのゆとり教育すら受けていない)

幼小中高大、それぞれの時期について、ざっっくり書いてみます。

●幼稚園
登園拒否。はえぇ。拒否発動するのはっえぇ。
超絶人見知りだったり、あがり症だったり、子どもが苦手だったり朝が苦手だったり、母親と離れたくなったり、いろんな理由があったんだと思う。

なんだかもう生きたくなさすぎて、一度幼稚園児なりに本気で自殺を試みた。けれど、「自分が死んだらかわいいかわいい弟が困ってしまう…!!」と気づいて断念。
(弟には中〜重度の知的障害があるのだけれど、うちの親はのほほ〜んとしてるので、兄兄姉で積極的に弟の世話を焼いていた。)
以後18歳まで「弟がいるから」を原動力に生き続ける。ビバ弟。

●小1
(たまたま同じ年に、同じ地域で生まれただけで、なんで一つの教室にぎゅうぎゅうに押し込められているんだろう…)
と、不気味さみたいな感覚を教室でふと抱く日々。

遅刻しがち。3学期の通知表で「ようやく笑顔が見られるようになりました^^」と書かれる。どんだけ顔死んでたの。

学校で嫌なことがあると、大泣きしながら家に帰って、母親に「学校行きたくない!!」と泣きついたりもした。(これだけ泣けば、学校行かなくても許してもらえるだろう)と計算の上。
学校では暗かったけど、放課後は活発に兄や友達と外遊びをする子だった。

●小2
動悸がするようになって、体育は常に見学。担任が大嫌いすぎて、遅刻、早退が増える。腹痛&頭痛を母に訴えるも「嘘つきなさんな!」で終わる。チーン。

このころ家では上の兄(15,16歳、不登校)の精神がそこそこ荒ぶっていて、そこそこトラウマティックな体験をする。
放課後は仲の良い友達2人と遊びまくっていた。(のちに2人とも不登校になる。類友…)

●小3
本格的に不登校人生がはじまる。

理由はいろいろあったが、トリガーは「給食がまずい」。極端な偏食&少食だったため、掃除時間中すら食べ続けることを強制されるのが苦痛すぎて、給食時間が終わる5時間目から登校するのがデフォに。その後だんだん欠席が増え、気づけば不登校状態になっていた。

このころ下の兄(中学の吹奏楽部に命を懸けていた)も休みがちだったので、よく家で一緒に、親に隠れて忍たまのビデオを観たりしていた。まだ、笑うことはできていた。

●小4
仲の良い友達が支えてくれて、けっこう登校する。小学校時代で唯一、元気な年だったかもしれない。
(ちなみに先日その友達と、10年以上ぶりに再会したら、僕と同じく福祉を学んでいてXジェンダーを自認してた。類友…)

●小5・小6
ヘッダーの写真の時期。
弟かわいい。かわいい。

クラス、担任ともに合わなさすぎて、あっという間に不登校に戻る。笑うことができなくなるほど、精神状態も悪化。

朝はめまいでしんどいし、うっかり朝起きてしまったら「今日は学校行くのね!」と母に詰め寄られてしまうから、無難に昼間まで寝るかぁ…という発想で、どんどん昼夜逆転してゆく。
立ちくらみがひどく、小児科で「起立性調節障害」と診断される。(特に治療はなし)

父親にも母親にも冷たくされ、「家での居場所もないけれど、家以外の居場所もないから、家にいる」という状態に。インターネットにのめり込む。

「今日は学校行くの!?行かんの!?アンタいい加減にしなさいよーーっ!!」
と布団をひっぺはがされる、恐怖の朝の繰り返し。僕も母も完全に混乱状態で、しょっちゅう大泣きしながら喧嘩した。
母は母で、家庭訪問してくる学校の先生や親戚からのプレッシャーを受けて、しんどかったんだと思う。

担任の先生もクラスも嫌いで嫌いでたまらなくて、「学校爆発しろ!!」という気持ちでいっぱいだった。
地元の公立中に行きたくないという理由から、塾に通って中学受験をした。

●中1
見事私立中学の特進クラスに進学、見事半年でまた不登校になる。
トリガーは理科教師ブチギレ事件(詳細は後日)だが、体力の限界がきた、そして「ふつうのふり」をする精神力の限界がきたタイミングだったのだと思う。

「中学は這ってでも通う!」と宣言していたため、母親にハイパーキレられる。

「母ちゃん、うちの気持ちわかっとらんもん!!決めつけんで!!大嫌い!!」
「アンタの気持ちなんか、わかりたくもないよ!!!」

言葉で傷つけ合う日々。殺し合い勃発寸前の、ヒステリックな親子戦争。ほかの家族は見て見ぬふり。
もちろん、誰も、助けてくれない。
(うちの母は元保育士の民生委員・児童委員なので、むしろ地域では助ける側だった…)

睡眠外来のある精神科で「社交不安障害」と診断される。
この頃は、「コンビニで肉まんを買う」ことすら緊張してできないくらい、対人恐怖が加速していた。

「将来どうなるのだろう」「お先真っ暗だ」
「転落人生だ」「もう終わりだ」

そんな絶望感と孤立感に襲われて、どんどん追い詰められていた。
学校には行けないけれど私立中をやめるのも怖くって、「行きたいけど行けない」「勉強が追いついたら行く」と言い張っていた。

そんなある日、母が突然、こんな言葉をかけてくれた。

「なにをそんなに、怖がってるん?」
「どうなっても人生強制終了されるわけやないんやけ」
「ひきこもりの人にもフリーターの人にも、その人の人生があるんやけ」
「いざとなったら生活保護もあるんやし」
「そんなに怖がらんくて、大丈夫よ」

今でも鮮明に、その光景を覚えている。
(なお母親はまったく覚えていない模様。笑)

「母ちゃんは、うちがどうなっても、うちの味方なんだ」という実感が、心の底から湧いてきた。「心のセーフティネット」ができた瞬間だった。

勇気を出して私立中をやめて、隣の学区の公立中に転校することになった。

●中2
公立中は3日で行くのをやめた。
もやは親も「ですよねーーーーー」というテンションだった。

しばらくは、たまーに別室登校しつつ、家でゆっくり過ごした。半ひきこもりで、絵を描いたりネットしたり新聞読んだり。Amebaグルっぽで「不登校の子集まろう」というコミュニティを運営したりしていた。
たまに母親とショッピング。親子で平日昼間の時間をささやかに楽しむような日々を送った。

秋から市立の「適応指導教室*」に通い始めたことで、人生が大きく動いた。

担任に教室を紹介された時は、「適応??指導??あーはん??喧嘩売ってんの??」ととても不快だったし母も不快そうだったが、モノは試しで行ってみたら、案外自分に合っていてとても楽しかった。

その教室は特に学校復帰をめざしてもいなくて、先生たちは生徒たちと対等に接してくれるのが何よりも嬉しかった。初めて「信用してもいいかな」と思える大人と出会えた場だった。

1日行って2日休む、くらいでマイペースに通所した。あいかわらず同世代は苦手だったけど、先生たちと話すことが、コミュニケーションのいいリハビリになった。そして中学を卒業、高校に進学した。
(*今は文科省での正式名称は「教育支援センター」に改められている)

●高校
高校は県立の定時制単位制高校を選んだ。制服も校則もなく学年もなく、自分で自由に時間割をつくれる、大学みたいな学校。

同じく元不登校の上の兄もこの高校出身だったし、昼夜逆転してるから午後授業がいいし、授業体験も楽しかったから、という理由でこの高校を選んだ。
結果アタリだった。

入学式の日は緊張して吐きかけたし、友達は少なくて基本1人だし、弁当はトイレで食べるし勉強も休憩もトイレでするし、世間的にはさみしい高校生活だったかもしれない。

が、僕にとっては、とても楽しかった。おもろい先生たちとたくさん巡り会えた。レインボーのリーゼントの生徒とかゴスロリの生徒もいた。安心して多様でいられる、そんな学校で、僕なりに高校生活をエンジョイした。
コンビニで買い物もできるようになった。東京に1人で行ったりもした。

「将来は自分の経験を活かして、不登校の子たちの力になれるような職業に就きたい」と考えて、「スクールソーシャルワーカー(SSW)」という、学校を拠点とする福祉の職業を知った。SSWになれる大学に行こうと決めた。

大学選びをミスったらまた不登校になる、と思い大学選びは慎重にした。いくつかの大学に見学に行って、SSW課程のある大阪府立大学を志望校に決定した。

高校に在学しながら予備校に通いつめてひたすら勉強して、大阪府立大学教育福祉学類に合格した。

●大学
地元を離れて1人暮らしをしたら、それまで悩まされていた人見知りも偏頭痛も、偏食も便秘も色々な恐怖症も、なぜか一気にほとんど治った。「地元や家の雰囲気が、体に合っていなかったんだ」と初めて気づく。

大学の自由なシステムや、大阪の飾らない空気感は僕にとても合っていて、同期や先輩にも恵まれ、かなり楽しい大学生活を送った。車の免許もとったし海外にも行ったし、色々と貴重な経験をした。

ラーメン屋さんや焼肉屋さんに入るのも、人と鍋を囲んで食べるのも、友達と旅行にいくのも、海に行くのも、すべてが初めてで、刺激的体験の連続だった。
体はしんどいけれども一応午前中から活動するようになり、1日がものすごく長く感じるようになった。

いろんな部活やサークルに入ったりやめたり新しく立ち上げたりした。ちなみに今はセクシュアリティ関連の2団体の代表をしている。えっへん。

不登校の子の居場所のメンタルフレンドや、家庭教師にも取り組んだ。不登校親の会などの講演にも、何度か呼んで頂いた。卒業論文では不登校生の健康や外出に関して、不登校経験者にアンケートをとったりした。社会福祉士の実習で市役所に行ったり、SSWの実習で小学校に行ったりもした。初めて小学校にまともに通った…

大学生活を通して、自分の経験に閉じこもらず、広い視野で多角的に物事を考える、という思考を学んだ。

とは言ってもやはりどこかで「無理をしている」部分はあって。あいかわらず身体的不調や情緒不安定は激しくて、依存体質も強く、死のうと考えることもよくあって、たまに精神科に駆け込んだ。が、薬が合わず続かなかった。

●大学院
「大学の4年間では学び足りない!」という強気な理由と、「まだ働きたくないでござる!不安!」という気弱な理由で、大学院へ内部進学した。
(僕のまわり、不登校経験者で大学院進学する子けっこう多いんだけどなんなのだろ笑)

博士前期課程は2年間で、今1年目。院生生活での目標は「やりたい研究をやり尽くす」と「健康になる」

最近は、健康体を手に入れるべく、相性のいい精神科で適切な薬を処方してもらったり、接骨院やジムに通ったり、いろいろな行動と工夫をしている。健康でないことが、やりたいことの足かせになることが嫌だから。頑張ってる。

プロフィールにも書いているように、「安心して不登校できる社会」を実現することが、僕の研究のミッション、人生のミッションだとずっと思っている。

どんな仕組みがあれば安心して不登校できるだろう。どんなことを明らかにすればいいだろう。どこを変えればいいだろう。そんなことをずーっと考えている。もはや研究中毒。

卒業後は、博士後期課程への進学も視野には入れているけれど、最近は色々な人の刺激を受けて、起業をしたいなと考えたりもしている。(この詳細もまた後日)
不登校の子も含めて、みんなにとって、息のしやすい社会をつくりたい。

●おわり
長くなったけど、僕の自己紹介はこんなところです。

不登校の頃はどちゃくちゃしんどかったけど、不登校の頃の自分のことは嫌いでないし、大切だし、あの頃の自分の生き方はとても好きです。自分の意思を貫き切ったことは、誇りに思っています。

今もたまに生きるのどちゃくそしんどいけど、あの頃の自分が「ふざけんなクソが、頑張って生き残った僕の苦労を返しやがれ」って怒ってこないような、あの頃の自分が誇りに思えるような、そんな生き方をできるよう、自分の生き方を好きと思える生き方で、生きています。

そんなこんなな自分が、ポチポチとツイートしております。お見知り置きのほど、どうぞよろしくお願いします。


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むらさき@不登校研究
使用用途::不登校関連書籍の購入、学会遠征費など

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