未完のままで
俺の書く文章には、度々オチがないことがある。
深く考えず、思いつくまま心情を吐露するだけのものなので、うまくまとまりきらない。
なので、
「オチのない文を書いてしまった」
などわざわざ自分から言う事で無理矢理
文章の落とし所に持っていく手法をよく使っている。
いわば自虐である。
自虐は便利だ。
コンプレックスを冗談めかしていえば、
本気で気にしている様には見えない。
要は、予防線を張る事で自分を守るのだ。
実際、俺は文章中、自分で自分に
「捻くれている」や「性格が悪い」
といった自虐をよくする割に、
高校にいる数少ない友人(少なくとも俺は一方的にそう思っている)に同じことを言われると
かなり凹んでしまう。
ちなみについさっきも、
「 『オチのない文を書いてしまった』などわざわざ自分から言う事で無理矢理文章の落とし所に持っていく手法をよく使っている」
と自虐している。
これを言い出したら無限にループするのでこの辺でやめておこう。
‥‥俺の文にオチがないという話だったのに、
いつのまにか自虐とは何かという話へと脱線してしまった。
話を戻して、
ここからが俺が本当に言いたいことなのだが、
(そして、言い訳めいている事を先に謝罪しておくが)
オチがないということが、
悪いことだとは思っていない。
オチがないことには、
ただ乱雑であること以外に、
思考が続いていく過程が人間らしさを
生み出しているという、意味があると思う。
完璧さや整合性を求めることは、
ある種王道的な美しさを求めることであるが、
むしろそれが息苦しさを生み出すこともあるのではないか。
自分の未完成の感性を抱いて、
未完成のままでいいと受け入れることも、
一つの終わり方かもしれない。
ちなみに、この文にオチはない。