北海道金属じん肺訴訟との出会い③~自分達を使い捨てた会社に対する怒りの意思表示をする
札幌弁護士会所属、村松法律事務所所長 弁護士の村松弘康です。
前回の続きです。
確実に迫る死、避けられない死を前にして自ら命を絶つ患者。
あたかも死刑囚が、死刑執行の告知を待つ恐怖に似て、人生の希望も夢も未来も失い、病院や自宅で苦しみに耐えてじっと死を待ちつづける日々。
これほどの悲惨が他にあるでしょうか。
原告たちは、じん肺と診断されて初めて、会社が自分達を人間として扱っていなかったことに気がついたのです。
会社はじん肺の恐ろしさを教えず、入院の直前まで粉じんの現場で働かせ続け、人間として扱わなかったのです。
会社に忠誠を誓い、働いて、働いて、働き尽くした後に、無惨な身体だけが残りました。
金属じん肺訴訟は、1980年(昭和55年)8月6日に余市町公民館で原告予定者に対する説明会を開催し、同年9月17日に提訴しました。(原告121名、弁護団76名)。
裁判は、自分達を使い捨てた会社に対する、人間としての怒りの意思表示でした。
「オレ達を人間として認めろ」
と、会社に対し異議を申立てたのです。
鉱山という閉鎖社会の中で使い捨てられ、闇から闇に葬り去られてきたじん肺患者。
「お山があっての自分達」
と、会社に従順に従い、会社に対し声を上げることなど考えもつかなかった人々が、やむにやまれず、立ち上がらざるを得なかったのです。
(次回へつづく・・・)