【住民本屋~哲学カフェ~】やってみた感想編
登戸駅の高架下で哲学対話(哲学カフェ)なる楽しいものをやってみたので、記録しておこう記事の第2弾。今回は「感想」編。前回「やり方」編を書きました。
今回、住民本屋という登戸のスペシャルなイベントの中の一つの企画として、哲学カフェを開催しました。開催日は2024年3月31日(日)。
住民本屋全体の様子は、こちらのレポートでお楽しみください。
今回の住民本屋の場所は、小田急線登戸駅の高架下。ガタンゴトンのノイズに包まれながらの哲学カフェ。哲学カフェ自体はドキドキの初開催。「哲学カフェやってみた」として感想を残しておきます。前回紹介した教科書に「反省するな」と書いてあったので、反省はせずに感想だけ残します。
ファシリテーターの役割(訂正)
今回ファシリテーターを務めたのは、わたしとカクヤマリーダー。リーダーは、いい具合に一歩ひいて周りをみてくれるだろうという安心感があり、事前打ち合わせもなく当日を迎えた。
前回の記事で、「ファシリテーターは、ルールを説明したら、特別にやることはない。」なんてことを書いていた。実際そう思って望んでいた。
ところが教科書を読み返すと実際にはこうあった。
めちゃやること書いてるやん。少しは出来てたかなぁ。あはは。
ただし引用文の冒頭にある、対話はみんなで協力し支えるという心構えだけはもって臨んでいた。成り行きを楽しむことにした。
第一部と第二部の2部制(90分ずつ)。成り行きを楽しむことにはしたものの、全員初めてなので、第一部だけは問いをあらかじめ設定てスタートした。
第一部
第一部の問いは「学校は必要か?」というもの。
この問いを設定した理由は、「知識ではなく経験にそくして話す」というルールに従って話がしやすいと考えたから。ほとんどの人が何かしら学校に通ったことがあるはず、というのが理由。
対話を始めると、どんどん手が上がる。
まずは、学校ってどんな学校を指しているのか?(小?中?高?大学?)という、今話をしている学校の定義の話が中心だったように思う。何を話したらいいのか、探り合う感じがあった。成り行きを楽しもうとしていたとは言え、全体が迷子になりかけているように感じ、哲学的な深まる方向にいくのか、少し不安に感じたりもした。
とはいえ、やはり「学校」というテーマゆえか、それぞれの経験が口から語られていった。そうして、初めての哲学対話は、最終的に語り足りない感を感じながら終了の時間を迎えた。
第二部
第二部は、問いをあらかじめ決めず、その場で問いを立てることにしてスタートした。
スタートするとすぐに、「アートは必要か?」という問いが出た。他の参加者からも満場一致でGoサインが出たので、この問いを考えていくことにした。
この問いに関しても、第一部の時と同様、これから問う「アート」という言葉は何を扱うのか?という、定義の話から始まった。そして、「アート」ってこういうものだよね、という話がそれぞれの口から語られていく。
そこで気づいたのが、「アートは必要か?」ではなく「アートとは何か?」を私たちは問いたがっているということ。そこから「アートとは何か?」という問いに切り替えて対話を進めていった。
アートとは?ということに関して、自分が考えたのはこんなこと。
「アートと対をなす言葉にデザインがあるように思う。人に理解してもらうためにデザインがある(と思う)。人に理解してもらうことが目的ではないそれ以外の全てがアートではないか。つまり自分自身のかなり多くの部分がアートなんだろう。ということは、哲学対話そのものがアートではないか!哲学対話は、人を理解し合うことが目的ではなく、それぞれの価値観(分からなさ)を受け止めあうことだから。メデタシメデタシ」
そんなこんなで、第二部もあっという間に終了。
全体の感想
ファシリテーターをやってみての感想は「相手に問うことはとても難しい」ということ。自分に問うことはできても、相手に問うには訓練が必要だなと感じた。互いに問うことをしないと、自分の意見を言い合うだけのディベート的なものになってしまう。また、感想タイムに「思っていたより楽しいものではなかった」という参加者の声がでていた。その言葉の真意までは分からないが、それを聞いた時は内心嬉しかった。楽しくなってしまったら哲学対話ではないから。
また、いち参加者としての感想も残しておく。今回、自分の経験を引っ張り出してきて語ることで、自分の価値観と向き合うことになった。普段ひとりではなかなかできない、自分自身の価値観の問い直しだ。これが出来たことが自分にとってはとても良い時間だった。
感想編おわり。またやりたい!
今後参加したい人いたらコメント・ご連絡ください。
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