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羊とカレー
みんなで作った野菜で みんなでご飯を作って みんなでワイワイ食べよう
畑多楽縁さん主催。
私もカレーライスをご馳走になりました。
野菜、香りが豊かで土を感じる味がしました。
みんながホールでワイワイとカレーを食べている光景は
「何もいらない。カレーがあればいい。幸せってこういう光景だ。」
とずーっと見ていたいような気持になりました。
来る方々も「来たい」と思っていらしているので
みなさんがその場を大切にして
お互いに会話で相手を尊重し合っているのが分かりました。
普段、一緒にいる集合体は「お金のため」だったり
「学業のため」だったり、「行きたい」と思っている人と
「渋々行くしかない」と思っている人と
そもそもの目的があまり気乗りしない場合が混在しているため
その場を大切にしようと思う人ばかりでもなく
お互いを尊重するどころか会話で傷つけあったりすることもあります。
本来ならば人生は「行きたい」「来たい」「大切にしたい」「心地よい会話に包まれたい」という願いで構成されていても良いはずです。
「そればっかりじゃないんだ。」
「我慢しろ。」
そんな言葉で自分自身も制御してしまっていること、ありました。
でも、そういう言葉を浴びせてくる人はきっと
まっすぐにその願いを叶えようと思っても
やっぱりそのような言葉で制御されてきた人生を
また同じ言葉で誰かを制御することで
「間違えていなかった」
と思いたいんじゃないかな、と今は思います。
やめる、のではなくて選択をできる自分になるということ。
逃げる、のではなくて避けることが出来る自分になるということ。
誰かを嘲笑う人と一緒にいても人生が好転するとは思えません。
ちゃんと、求めて、そこに行けば
優しい人とカレーがある。
そんな場所がある。
私は今日、それを見ました。
カレーを食べたら少し考えてみてください。
あなたもまた、そんな場所をあなたの周りに作っていけるということを。
カレーじゃなくても良いのです。
お茶いっぱいでも良いのです。
何もなくても良いのです。
あなたもそうありたい、と思った時から
あなたの周りはそういう場所になるのです。
私が書かなくとも
同じようなことは古今東西あらゆる人が述べてきたけれど
だからと言って人任せにしていたら
やっぱり「そうではない場所」が増えてしまうのです。
どんどん、どんどん、増えてしまうのです。
嘲笑う人もいました。
わざわざ聞こえるように笑うその行動は
本当にその人を満たしているのでしょうか。
嘲笑う人の顔や声は醜いものです。
どんなに綺麗にしていても醜くゆがむものです。
不思議だな、と思うのです。
どうしてごまかしがきかないのでしょうね、表情って。
私は今日、たくさんの優しい表情を見ました。
化粧していてもしていなくても
皺があってもなくても
腰が曲がっていてもいなくても
うまく喋られなくても饒舌でも
美しいなあ、と思いました。
美しいなあ、と思いました。
この美しさが分かるまで生きてきて良かったなあ、と思います。
美しい、という字は羊から生れたとか。
美味しい、美味しいと食べられる羊が
美しい、を作ったように
美味しい、美味しいと食べられるカレーが
ちゃんと美しい、を作っている。
そのことに感動します。
先ほど、お風呂に入って
髪も洗って服も着替えたのに
不思議なことにふんわりとカレーの香りがしたような気がしました。
幸福でありたい、という気持ちを
幸福を産みだす、という意識を
どうか忘れないで、諦めないで、そして伝えてください。
私たちはこの世の終わりにいるのではありません。
人が死ぬのはなぜか。
わたしはこう思います。
未来の人が生きるため。
わたしの死は誰かのスタートならば
幸福であれ、と思いながら死にたいと思います。
私が生きているこの世界はきっと
誰かがそう願ったことで続いてきたのだと思っています。