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【うらがみむらかみ往復書簡】19通目 | むらかみ

うらがみさんへ

新年のご挨拶もできぬまま、時がすぎてしまいました。
今年もうらがみさんにとって、いい1年になりますように。

冬の空は月も星もくっきりと見えて、帰り道にふと見上げたとき、広がる夜空に見入ってしまいます。
先日の満月では大きな満月と小粒の赤い点、火星がかなり近くて、天文的なことは詳しくないけれども、このときだからこそ見れる空に見とれました。
このお手紙の表紙に写真を入れてみましたが、夜空は写真にどれだけおさめても、なかなかそのときに見たうつくしさを残せないですね。

わたしも『なめらかな人』を読んでからしばらく経ち、読後の新鮮なきもちを持ってはいないものの、うらがみさんの感想、受けとったものはじぶんとはまた違っていて、あらためて思い返してみています。
「文章のおもしろさ」、たしかに百瀬さんの文章は読みながらうわぁっと情景が広がり、ドラマを一気に観たような気がしました。
文章でいうと、敬愛する江國香織さんはもちろんのこと、くどうれいんさんの文章も好きです。
うらがみさんは百瀬さんに圧倒的な違いを感じたのですね。わたしも確かに職業、家庭環境は違うのですが、やはり年齢の部分でひとつ歳上という点において、たとえば学校で一学年上の突出した先輩、目立つ存在であったりそうでなくてもどこか惹かれるひと、のような印象があります。年齢が距離感を一気にちぢめるのかもしれない。
自分をどれだけ開示するか、も興味深いです。
それがどんな形態の作品であっても、またその現れ方の程度の差こそあれど、作り手が今までに取りこんできたものがおのずと現れるわけで。わたしは特に小説をよく読むのですが、小説にもやはり作家の生きるなかで得てきた考えが情景に織りこまれている部分に思い当たります。

歳を重ねるほどに、自分の核の部分はいい意味でも悪い意味でも変わらないなと思います。
食べものの好みが多少変わっても、趣味が増えても、目指すものが変わっても、子どもの頃、わたしは特に小学生のときに形づくられた自分はずっと中心にいて、いつまでも本が好きだし、直感的、感覚的な人間です。
長所と短所は表裏一体なので完璧になれるわけもなく、完璧なんてないのだけれど、いつまで経っても自分の弱い部分によって壁にぶつかってしまうときは何度おなじことを繰り返すねん!と苛立ちますが、それも自分なのですよね。
はじめて出会う感情や処理しきれないものがあることは、そのときはつらいし、しんどい面があるでしょうが、35歳のわたしからすると、うらやましくまぶしく感じてしまいます。
この先、つらい出来事にはぶつかるだろうけれど、それも経験したこと、一度はくぐり抜けた感情な気がします。
と思っていましたが、子育てにおいては息子の成長とともに、はじめて向き合う感情や経験もあったことに今、思いあたりました。
みずみずしさ、新鮮さとは違うように感じるものの何歳になっても自身の中に新しさを見つけられるということなのかもしれません。

自分はこう思う、思っていないを発せられるうらがみさんは立派です。
愚痴を吐きたいときはだれにでもあるだろうし、こころにたまったしんどさをそっと吐き出して「愚痴ばっかりごめんね」と声をかけてくれるようなシチュエーションと、誰彼かまわず愚痴が口ぐせのようになっている場合とも違う。
ただ、後者のような状態になっているひととともに過ごしたいかというとそれもわたしは否で、そうやって自分に心地よいひととの関係を意識せずとも選びとっているのでしょうね。
TVで報道される芸能関係のニュースにわっと飛びついて、ネットで一方の側を責め立てるひとは、普段抱えている疲れや苛立ちをそれで発散させているんだろうと思います。
そのエネルギーを別なところに向けられたらいいのですけどね。

この1年のなかでも、自分の興味、やりたいことの矛先があっちへ行き、こっちへ戻りとしています。
奈良をまるごと繋げるメディア「ナラゴト」という活動内で、奈良で暮らし、奈良で自分のお店や教室を構えられている方3名に取材をしました。
そのひとの過去・現在・未来を会話を通して知るのがとても楽しく、性にあっていると気づきました。
本当はそのひとからお伺いしたことを文章でも伝えられたらいいのですが、書こうとすると身構えて堅くなってしまう。
ナラゴトメンバーからのことばでは、わたしがひとりで話しているポッドキャストより、こうして会話しているときのほうがいい、とも。
ひとと対話しているときが一番、自分を出せているのかもしれません。だから、往復書簡でもうらがみさんとおしゃべりしているように書いているからこそ、のびやかでいられるのかも。自分だけのなにか、他者へ向けていても受け取り手がこのひとと決まっていないものに対して、ストッパーをかけてしまっていそうです。
うらがみさんのおっしゃる、やりたいことを成果物ですと出すことで充分だし尊い、という考えがわたしを励ましてくれています。

永井玲衣さんの『水中の哲学者たち』をちょうど読まれていたのですね。
「他者とわかりあうこと」は『世界の適切な保存』でも浮かびあがっていたテーマな気がします。
「わかる!」って友人間でよく交わすことばですよね。なんの気なしに発しているものの、それはきっと表面的にわかった気になっているだけで、「こう思う」のうしろにあるものは見えていないし、見ようともしていないし、すべてはやっぱりわからない。
「わかる!」のあとに続く相手の考えに違和感があるとき、わかります。と、ここでもこうして、わかるを使えてしまいますね。
相手もただ「わかる」と言ってもらいたいだけのこともあるでしょうし、そう思うと相手との関係性や、こちらが相手とこうでありたいと望んだ距離において、どこまで深く分かろうとするかによって返事を選ぶ必要もあるのかな。
永井さんの文章からは、まっすぐ相手と組みあってわかりたい、わかろうとしたい、と願う真剣さが感じられて、すてきな方だなと思いました。

うらがみさんの話し合いは論破の場だと子どもの頃思っていたことから思い浮かんだことがあります。
わたしは同僚、友人、家族以外のひととの議論では一歩ひいて、受け入れる側、論破されるというか相手の主張に納得をする(納得をしたように見せる)側です。
夫に対してはそうではなくて、意見を頑固に主張し続けてしまう、まさしく内弁慶。
これも小学生の頃からまったく変わっていません。家族にだけは絶対に折れなかった。
小学生のときよりは、相手の主張を受け入れつつも自分の意見もやんわり加える術は身につけたように感じます。
うらがみさんのように諦めず他者と向きあおうとするところを自分も意識できたらいいな。
自分を表現すると、よく言えば柔軟性、共感性がある、一方で家族のようになにがあってもそばにいてくれるであろうひと以外に距離を置き、ぶつかりあわないところがある。
うらがみさんと半年以上やりとりさせてもらって、自分ってこうだったんだと気づけたことがたくさんあります。

年末年始はいかがでしたか?
わたしは大晦日、お正月と体調を崩してしまいましたが、のんびりおだやかに過ごしました。

うらがみさんは年始に目標や計画をたてますか?
わたしは今年の目標を立てても、年末にはなにもかも忘れてしまって、そういえば目標立ててたな、と思い出すばかりです…。
でも今年は巳年、年女で節目を意識していて、最後まで目標というか、これをするぞと決めたことを貫きたいと思っています。
3つあって、ひとつは36歳のこの節目を大事に、この先の12年間、どうなっていきたいかをかためること。
ふたつめは今年だけではなく達成するまで掲げるつもりですが、行ったことのない16県のうち数県に赴く。今年は群馬県、栃木県、山口県に行こうと計画中です。
最後は先月からはじめた読書日記を1年間つづけること。書くことへの自意識にもつながっているのですが、愛してやまない読書と日々つけている日記を絡めることでことばを継続的に出す習慣をつけたい。
どれだけ日記を増やすんだ、と自身へつっこみを入れつつ、やってみます。
目標には入れていないですが、音楽を奏でる日々をおくることもやりはじめていることです。

2025年も1月がおわりに近づいてきました。
春の気配はまだ感じられないけれど、チューリップを植えて、春を心待ちにしています。
うらがみさんからのお返事もゆったりと楽しみに待っています。

むらかみより

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