いつか忘れてしまうから
息子が生まれてから小学1年生になる今まで、寝る前に欠かさず日記を書いています。
小学生のときから、何度か日記をつけ始めては数ヶ月でやめる、を繰り返してきた自分だったけれど、息子との日々はずっと残しておきたくて、完全に習慣となりました。
誕生からの1年間は数ヶ月はミルクの記録が残せて、さらに毎月の成長まとめも書ける育児日記を、1歳からは3年日記を使っています。
1歳から3歳、3歳から6歳と書き続け、2冊目ももうすぐ終わろうとしています。
3年日記のいいところは、1年前、2年前の今日の息子を思い出せること。
たとえば、1年前の今日は「幼稚園の先生にアスレチックでおしりを出していたと報告を受けました」
…そういえばそんなこともあったなぁ。
記憶からは抜け落ちていたできごとが、一文を読むだけで光景としてよみがえる。
1歳の息子も、4歳の息子ももういない。
それだけ大きくなってくれたことへの喜びと、少しの寂しさ。
日記のどこかのページに、数々の出来事はそっと残っていて、この先もしかしたら読むかもしれないし、一生そのページは読み返されない可能性だってある。
思い出を残しておくために日記を書いてはいても、過去の日記を1ページずつゆっくりと読み返すことはまずない。
それでも、ふとしたときに開いて、たまたま見たページに書かれていた出来事が、ぱっと脳裏によみがえる感覚が大切で、息子がいくつになっても書き続けたい。
いつか、どこかのタイミングで区切りはつくのだろうけれど。
この前、息子が大好きだった絵本をお子さんが生まれた同僚にプレゼントして、同僚がお礼と共に絵本の写真を送ってきてくれたとき、息子がその写真を覗きこんだので、
「(息子)が赤ちゃんのとき、好きだった本だよ」
と言うと、返ってきたのは
「この本、知らない」
その絵本は友達にあげてしまったので、家にはないし、赤ちゃんの頃の記憶はほとんど息子には残っていない。
でも、私はその絵本を何度も繰り返し読み聞かせたことも、同じシーンで声をあげて笑ってくれたことも覚えている。
ただ、年数を重ねるごとにそれだけ息子との思い出は積み重なっていくので、私の中でも5年前とははるかにその記憶の鮮明さは違っている。
今の息子との思い出も、きっと薄れてしまう。
息子の口ごたえに何度も声を荒げてしまったことも、息子と手を繋いで歩いた帰り道も。息子と見たダンゴムシも。
ささいな思い出ほど、尊い。
朝、通勤電車でここまでの文章を書きながら涙をこらえている私は周囲から見たら、よっぽど悲しいことがあった人。
でも、昔の息子との記憶が薄れていくことは、それだけ息子が大きくなって、思い出が増えていくことなのだから、何よりもしあわせなこと。
楽しい、嬉しい出来事ばかりじゃない。この6年半も大変だったり、イライラしたり、心配したり、日々、子どもを産む前には感じてこなかった感情を味わっている。
この先もそう。直面したことのない苦労が待っているのかもしれない。
小さな頃の日記を読み返して、あのときの息子はどこへ…なんて遠い目をするのかもしれない。
それでも私は目の前の息子を、過去も今も未来もずっと愛している。
そして、いつか忘れてしまうかもしれない記憶を、これからも綴り続けていく。
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