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【うらがみむらかみ往復書簡】17通目 | むらかみ


うらがみさんへ

こんばんは。もしかすると今年最後になるかもしれないお手紙です。
今年は秋を味わう時間がなかった、と友人間で挨拶がわりに交わすことが多い今日この頃です。
トレンチコートを着るタイミングがなかったよね、わたしも一度も着なかった、そんな言葉が飛び交いました。
関西では今、ようやっと紅葉が見頃になったような感覚です。例年よりはるかに遅い。木々もこの気候には戸惑っているよう。
冬は散歩にはぴったりな季節でキンと冷たい風を肌に感じながら、愛犬を連れて歩く時間が好きです。

百瀬文さんの『なめらかな人』を読み終えました。
本のタイトルでもある冒頭の『なめらかな人』で本に抱いていたイメージをくつがえされ、あれよあれよと百瀬さんという人そのものに惹かれていきました。
わたしより1歳年上で、自身の成長とその周りの環境変化がほぼおなじ人なので、幼少期から今に至るまで自分はどうだっただろう、であったり、百瀬さんと同じ30代半ばの今この時を自分はどう過ごし、どう感じているのだろうと文章を読みながら照らしあわせながら読み進めました。
エッセイにはだれかの日常や感情をありありと感じさせる役割があるとは思いますが、抱いている世界を映像で表現する百瀬さんならではの日常と非日常を垣間見ている気持ちが強くて、それはどこか居心地の悪いものでした。
他の著者さんのエッセイでは感じることがなかった手触りで、それはなぜなのか考えると、それは百瀬さんのさらけだすものの強さを自分がどう受けとるか、試されているような気がしたからだと思いました。
自分と歳の近い百瀬さんがもし身近な存在だったら、わたしはどんなふうに百瀬さんを捉えるのだろう。親しくできるのだろうか、親しくしてもらえるのだろうか。
そんなことをずっと考えながら読んでいました。
うらがみさんはどう感じましたか?何を思いましたか?

百瀬さんのことばに対する受け取り方、感じ方は、うらがみさんとわたしで違っているのかもしれない。
一つひとつを取りあげてその解釈を照らしあわせることはできないとしても気になります。
個人の解釈の部分もあるだろうけれど、うらがみさんにとっての百瀬さんは11歳年上の人だから、百瀬さんという人をどう捉えるかも、わたしとは異なる気がするのです。

わたしの11歳年上といえば46歳で、それはもう人生の酸いも甘いも経てきた立派な大人です。
10歳年下のうらがみさんから見ると、35歳のわたしだってずいぶんと大人に感じるかもしれないけれど、案外そんなことはなくて、それはいくつになってもそう感じるのかもしれない。
今、46歳の人と接する感覚と、自分がいざその歳を迎えたときの感覚の差異。
たとえ80歳になっても、思っていたよりも大人になれなかったな、と感じるのかもしれません。

ただ、10歳ほど年下の人たちと接していると
自分はこんなにみずみずしくない、とは思ってしまいます。
みずみずしさとはなんなのでしょう。
歳を重ねることで自分に蓄積されていく経験が、人を変えていくのでしょうか。
ただ、枯れるのとも違っていて、いろんな感情を知ってきたからこそ、この感情は前にも抱いたと思うことが増えていくのかもしれません。
たとえば、失恋や失敗に対したときの感情も経験も初めてではなくなって、心は揺さぶられたとしても、ある程度受け止めきれてしまう。
それが成熟ということなのかもしれません。

人が人を決めつける場面として、ネットでのよく知りもしない会話やひとつの投稿をあげつらうこともありますが、わたしの場合、すぐに思い浮かぶのは職場です。
相手の立場を想像する余裕がない、こちらばかりが損をしていると思って相手の否の部分を拡散する。
そんなとき、声をあげている人が近しい人であるほどに同調をしてしまう。一方で責められている人の立場もわかるし、わかりたい。
ありたい自分ととっさに動く自分には乖離があります。
百瀬さんは自分のトラウマや衝動的に起こしてしまう癖を俯瞰して見つめられていましたね。
空中から自分を見るような、その視点は百瀬さんが映像を撮る、撮られる人であることも関係しているのかもしれないと思いました。
心がえぐられてしまうかもしれないけれど、百瀬さんの作品を観てみたい。
エッセイを読んだからこそ、この人のつくりだす世界に触れたい。

随分と『なめらかな人』から話が広がりました。
これだけたくさんの思考を巡らせることができる本は、きっと自分にとっていい本だし、読みながら抱いた居心地の悪さこそが、わたしに必要だったと思います。
うらがみさんに教えてもらわなければ知らないままだったかもしれない。ありがとうございます。

「こころを描く」とき、絵画と文章での違いは、文章では行きつ戻りつがあり書きながら考えている、絵画では思うままに描いて、描きあがったあとに絵を見て、これが表現したかったのかと気づくことでしょうか。
絵はまず描いてしまえる。描いている間は目の前の絵に集中できます。
文章は日記や思考をふかめるために書き連ねる、自分のためだけの文章を除くと、表に出すかもしれないものであれば、読み手を意識してなかなか思うままに書けていないかもしれません。
絵では他人の作品を気にせず認めることができるのに、文章となると比較してしまう。
この人はこんなにすばらしい文章を書いているのに、自分は…なんて気にしてばかりで書きあげられないこともあります。
こころのうちにコンプレックスを構築してしまっているのかも。

共通点はなんなのでしょう。noteに公開するような私的でありながらも公に提示する文章をそれほどには書けていないから、まだ見つけられないような気がしています。
うらがみさんとの往復書簡が一番、とりつくろわずに表現できているようにも思います。
こんな風に他の文章も書けるようになりたいです。

グループ展では、はじめてオリジナルグッズとしてポストカード3枚セットを販売し、1セット売れました。
1セットのみであっても、誰かの手元にわたしの絵がある様子を想像するとじんわりとこころがあたためられます。
今は奈良県の法隆寺駅近くにある「3F上ル」というカフェで2人展をしていて、カフェのテーブルや壁に絵を飾ってもらっています。
絵を見に来たわけではない人に絵を目にしてもらえるのは、なんだかくすぐったくてそわそわとします。
自分のことをまったく知らない人に絵を見てもらって、なにかを感じてもらえたらと願うばかり。

静かな気分。形にするパワーが足りないという表現に共感しました。
普段から読んでばかりの日々ですが、いつもよりさらに読書を欲してしまうときがあります。
描くことも書くこともしたいことなのに、どうしても読まずにはいられない。
今も絵を描き、音声配信をしつつも、本を読みたい欲が勝ってしまって…。

自分なりのペース、大切ですよね。
これだけテクノロジーが発達して、タイパ、タイパと当たり前のように言われているけれど、ちょっと立ち止まりたい。
奈良に住んで、のどかでおだやかな時間を過ごしているうちに、すべてを効率よく、最短ばかりを意識して生きるのは果たしてしあわせなのだろうかと思う気持ちが強くなりました。
最短を目指しても、結局それは望む場所から離れてはいないか?と。
早く、速くと望むうちに焦りが生まれて、こころが安定しなくなる。不安定な状態のまま、つくりあげたものに残る違和感。
このめまぐるしい時代に疲れてきた人も多いのではないかと思っています。
だからこそ、ゆっくりできる場をつくりたいし、自分もおだやかでありたい。

今、書いていてよぎった言葉、「おだやかに、着実に」を来年のテーマにしたいと思います。

わたしも締め切りがあるから、絵を仕上げられている部分があります。
文章も確かにうらがみさんへのお手紙は必ず書きたいと思って書き進められているので、締め切りの重要さ、身に染みます。
フランス文学に詳しい教授の方がご自身のエッセイでも、締め切りがなければ書けないと書かれていたので、文筆家の方でも自発的に書き続けるのが困難な面はあるのかも、と励まされました。

個人的な日記はわたしもこの1年、続けることができそうです。
息子が生まれてから毎日欠かさず、息子のことを中心に書いている日記があって、それは気づけば7年以上続いていることになります。
それとは別に自分に焦点を当てた日記を今年は書いていて、日記で自分と息子に対して振り返る時間がたっぷりとれた1年間でした。

今を生きる方の考えでいうと、永井玲衣さんの『世界の適切な保存』をおすすめしたいです。
この方もわたしの3つ下で、歳が近いことも親近感を抱いた部分ですが、日常で湧き起こる考えから世界情勢や社会問題まで、さまざまな出来事と哲学を絡めて、物事を突きつめようとするその文章に惹かれました。

旅行先が日常である人々のこと、わたしも考えます。
わたしにとっては奈良での日常は当たり前で、それこそ奈良公園の鹿もある種、身近です。
毎日行くわけではもちろんないけれど、鹿がいる様子をそこまで特別視もしていない。
でも、奈良から遠く離れた人にとっては、一生に一度行く、もしかしたら一度も行かない、そんな場所なわけで。
自分にとっても、そんな場所は山ほどありますし、当たり前でもなんだか不思議ですね。
ぜひ、奈良ののどかさをうらがみさんにも楽しんでほしいです。

わたしももしかすると年内最後のお手紙かもしれないので、良いお年をお迎えください、と添えておきます。
年末年始はどんなふうに過ごされますか?
わたしはこれといった予定がない分、大掃除をしたり、家族でおいしいごはんを食べたりしたいなと思っています。

むらかみより

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