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ふと気づいたら入社10年の節目が過ぎてた焦燥感

10年のキャリアを振り返って

22年4月1日で入社して丸っと10年が経った。
3年ぶりに対面開催になった入社式の会場運営をしながら、任されてる事業収支計算に頭を抱えていたらあっという間に10年の節目の日が過ぎ去っていった。

(カメラ目線だねと友人から写真が送られてきたw)

11年目のキャリアもあッという間に流れていかないように、10年間を振り返っておかなきゃという強迫観念に迫られて目が覚めた。義務感とちょっとしたやる気の混ざった休日の朝。なんとなく悪くないw
アウトプットしなかったらきっと後悔しそうだし、スタバに籠って自分の頭の中の”なにか”を書いては消してを繰り返している。

昭和産まれなもんで打ち込む前に紙に書いて頭の整理w 恥ずかしいから裏向けて撮影

10年も同じ会社にいると、仲の良かった同期の数名は転職してるし、初めて配属されたチームは8割以上知らないメンバーになってて
僕自身、大きなロールチェンジも6回ほど起きた。細かな部署異動もカウントすると平均年1回以上コロコロ変わっているかもしれない。

エンジニアからスタートした社会人生活も、経営企画→技術企画→人事と職種が変わり、自分の将来のキャリアイメージもようやく手触り感がでてきた気がする。
今ではそれっぽいロジックで「何で職種・キャリアを変えてきたのか」を格好つけて語ってはいるけど、
その原動力はもっと利己的で逃避的なもので、当時の延長線上にあるキャリアへの悲壮感と絶望感だったんだと思う。

エンジニア時代、周囲とのコンフリクトは若干起こしていたとは言え、事業貢献については買ってもらっていたと思う。
でも、当時の先輩・課長・部長のようなキャリアを進みたいと思えず、だからと言って、何か明確に達成したいと強い情熱を燃やし続けれる領域も見えないし
「いち早く逃げ出して、いわゆる”夢”をみつけたい。」という焦りに悶々とする20代だったんだと。

どうやってこの悲壮感を打破するのか見えないまま、
タバコも吸えないくせに、机の中に忍ばせたいつまで経っても本数の減らないマルボロ1箱を片手に喫煙室に行っては、
色んな先輩に話を聞いてもらったり、ヒントを探そうと話したこともない人の話に勝手に聞き耳立ててた。w

そうやって情報を集めては、もっと込み入った話を聞くために
年休を取って、上司に嘘をつきながら、色んな職場の方に話を聞きに行っていた。
今ではOnlineで簡単に話も聞けるのに、なぜか当時は新幹線に乗ってまで対面で聞きに行っていた。
(上司に嘘をついたのは、別部門の方のオフィスに会いに行くと、入館履歴が残るので、「忘れ物取りに行った」とか適当なことを言っていたと思う。)

もちろん、皆さん初めましての方ばかりで、はじめは同期経由で紹介してもらってたけど
途中からは社員名簿で連絡先調べて、一方的に「会いたいです!」とyoutuberさながらの突撃をしてたw
もちろんメントスもコーラも持っていない。

キャリアの転機

色々動いてみて自分の食指が動くのは「企画」なんだなと気づきだしてた頃、キャリア相談をしてた事業企画を担ってる先輩から「飯行こうよ」と休日に家まで車で迎えに来てくれて
近くのぐるなび評価の高い洋食屋へ連れて行ってもらった。

色んな話を聞くうちに、いち早くこの先輩が担っているミッションに自分のキャリアを寄せたいと
そうすれば当時事業でうまくいかないと悩んでたことも解決できそうだと、焦りに似た希望を持ったことを覚えている。

家に帰ってすぐ、先輩をCcに加え、その部門の責任者(現在は弊社の役員)にランチをお供させてほしいとメールを送った。

翌週責任者とランチを食べ、何回か話をした後、
「(当時の僕の責任者が)OKと言えば異動しておいで」と言ってもらえた。そんなお土産を片手に、上司・人事へ相談に行った帰り道は絶望だった。なぜなら答えはNOだったから。

昇格面談のさなか(当社は半年くらいかけて昇格に向けた試験と研修がある)だけど、転職の文字が頭を過ぎる。
そして偶然過ぎるタイミングで、転職サイトに登録した訳でもなく、一度もコンタクトしたこともないエージェント会社の方から引き抜きの電話がかかってきた。特許調査をする中で、僕の名前が検索で引っかかり電話をしたとのこと。

すぐにレジュメを作成し、気づけばトントンと1次・2次面談が終わり処遇交渉しながら役員面談日を調整していた。弊社の昇格は半年かかるのに、転職の面談は数週間で完了w

ダメだったら転職しようと想いながら、もう一度企画をやりたいと社内で交渉を再開してみることに。
人事から回答の先延ばしに何度もあいながらも待ち続けたのは、この会社でキャリアをカタチづくっていきたい想いが勝っていたからだと思う。

結果、望んでいた事業企画部門への異動は叶わず、代わりに本社の経営企画部への異動が決まった。
転職の話は秒で断り、異動を望んでいた部門の責任者にもお詫びの一報を入れつつ、
その時には自信のキャリアへの逃避的な悲壮感ではなく、未来へのワクワク感に変わっていたと確信している。

いざ経営企画へ

異動後、自身の知識のなさに絶望した。教科書で読んだある話を皆が口にしていて、単語はわかっても意味が理解できない。
「円安になったら何が困るの?という質問に即答できない」方は、これが当時の僕の状況で、体感・共感いただけるんじゃないかと思う。

僕が勝手にロールモデルに置いている先輩社員ともこんな劣等感満載の時に出会った経企異動後最初の課長さん。未だに困ったら、「あの課長なら何て振舞うのかな」って考えたりもする。

この課長の僕への問いかけが秀逸だった。
「今日の為替はいくらだ?」「今朝の日経で気になるNEWSは何か?」「それが当社株価へ影響を与えるとしたら何か?」
色んな質問を投げかけられた。ランチ時に聞かれるので当時は人生一まずい昼ご飯だった。
「良薬口に苦し」とはこのことで、知識が紐づいてちょっとづつ理解が拡がってきたような気がする。聞き覚えのある単語たちは、自社の影響として理解できるようになってきた。
INPUTよりもOUTPUTしながら学ぶことの重要性を実感したのがこの時だったと思うし、この劣等感と引き換えに勉強方法を考える習慣が身に付いた気がする。

そしてOUTPUTしながら知識を増やすために、当時「社内勉強会」と「(大学での)講義設計」の2つのことを始めた。誰かのためでなく、自分が成長するための利己的な動機で。w

実は、この2つの取り組みが今のキャリアに結びついていて、
「勉強会」は社内コミュニティとして自身のOFF活動の中心に置かれているしアクティビティだし
「講義設計」は、そこでの出会いがきっかけで異動し、今の自身の本業の1つになっている。
経企異動後の経験はほぼ全て、今のキャリア・人生観にとってかけがえのないものだと思う。(とか言いつつ、振り返りは割愛するw)

喫煙室をDXする

10年を振り返ってみて、11年目の今、おかげさまで、仕事もアクティビティもワクワクしながら日々を過ごせていることに本当に感謝している。
ここに書いたことも、書いていないことも1つも欠けては実現し得なかった”今”だと思う。

でも何が最も欠けていてはいけなかったのか、強いて1つを挙げるなら、
タバコの煙ではなくこの先のキャリアが見えずモヤモヤしていたあの頃、足しげく逃避していた『喫煙室』が
逃避的な日々を変えてくれたパワースポットだったんじゃないかと思う。

キャリアに一様な正解なんてなくて、誰かの成功体験をマネたり、自分の中に(恐らく)ある関心に向き合ったりするしか答えなんて見つからないと思っていて、
喫煙室では色んな気づき・興味の種を授かったり、話を聞いてもらいながら自分の頭の中の言語化を色んな先輩に手伝ってもらった。
そんなかけがえのない憩いの場だったんだと思う。

喫煙室が良質なメンタリングの場だった

一方今日では、禁煙/分煙の流れや、流行の伝染病によって喫煙室閉鎖の流れが押し寄せている。喫煙室の閉め切りが10年前に起きていたら、もしかしたら悶々としながらまだエンジニアをしていたのかもしれない。

喫煙室に代わる何かが必要なのかもしれない。


現在、社内のコミュニティ運営を行いながら社内の部門を越えたナナメのメンターマッチングに心底情熱を捧げている。
この取り組みは会社をより強固にすると心の底から信じている取り組みだけど、そこに捧げる情熱はこんな経験が原動力になっているのかなと…

喫煙室の機能をデジタルで実現する

喫煙室が提供していた良質なコミュニケーションの場は、10年経ってデジタルに機能を移し、
誰かキャリア形成支援を行う場に生まれ変わる必要があると思うんです。

社内の勉強会やななめのメンターマッチングなど、喫煙室に代わる憩いの場をオンライン上でリデザインするために次のキャリアの10年を費やせたら最高です!


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