ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑯
彼と初めて出会ったのは、宮崎の施設の食堂だった。
朝、目をさまして、身支度を整えてから食堂へ向かう。
朝の食堂には決まった顔ぶれが数名いる程度。
人が少なくてちょっと落ち着く。
いつものように朝食をのせたトレーを持って、外の景色が良く見える窓際の席に足を向ける。
すると、見かけない10代の少年が私の向かう先の近くのテーブルにいることに気が付く。
彼からもう少し離れた別の席に座ろうかなとも思ったけれど、その決断をするよりも前に目的の席についてしまった。
ここから他の席に移動するのも不自然だと思い、そのまま座ることにする。
少年は椅子に腰かけて、机の上の食事をただ眺めていた。
食事に手をつけた様子はなく、すこし気怠そうに椅子の背もたれに寄りかかったまま動かない。
いくら時間が経過しても、彼が動き出す予兆すら見えなかった。
トレーの上の朝食は、まるで数学上の未解決問題みたいに取り残されている。
彼にどのようなバックボーンがあるのだろうか。
彼は今、何を考えているのだろう。
食べ物をただ眺めるというのはどのような心境なのだろうか。
一向に食事に手をつけようとしない彼を眺めるともなく眺めながら、食事を続けていたら彼が私の座っている近くの窓の方を向いて、「雨降ってますか」と聞いてきた。
視力は低いようで目を細めている。
話しかけられて驚いていることをさとられぬように、冷静を装って、私も窓の方を見る。
外では霧雨が木々の幹や道路をうっすら暗く染めていた。
私は窓を見たまま「降ってるみたいだね」と答えた。
そんなやりとりの数年後、私と彼は同じ日に高校を卒業し、そのまた数年後、彼は京都で作業療法士に、私は東京で社会福祉士の資格をとって重度訪問介護事業所に就職することになった。
たまに連絡をとると二人の出会いの日のことを思い出して笑いあう。
「食事を眺めている少年」と私がからかうと「雨降っていますか」と笑う彼。
電話をすると、いつもなんだかんだで長話になる。
「じゃあまたね」と言って電話を切ったあと、もうこんな時間かと驚く。
そして毎度、他者と共有された思い出があるという事実にすこし励まされたりもする。
今回も前回に引き続き鹿児島の実家から出て宮崎で過ごした4年間のことを書いてみる。
今、こうして振り返ると、宮崎時代の1つの大きなテーマは、他者と一緒にいる自分に慣れることだったように思う。
宮崎での生活の中で、私は立場や役割があることで生まれる関わり大きさを実感していた。
ひきこもりのころの私には社会的な立場などなく、外との関わりはゼロだった。
外に出たいと思っても、社会に適応できなかった人、支援が必要な人という立場に強制的に立たされるような気がして踏み出すことができなかった。
自分が果たすべき役割を放棄してしまっているような罪悪感から、家族との関わりも避け、ただただ沈黙するしかなかった。
私の存在は宙に放り出されたまま落ちることができなくなったボールみたいに宙ぶらりんだった。
そんな私にみんなどのように声をかけてよいのかわからず戸惑っていたし、私もなんて言っていいのかわからなかった。
当たり前かもしれないけれど、立場や役割というものは他者とのコミュニケーションのきっかけや口実になるものだ。
私自身、元ひきこもりで社会復帰を目指す青年という役割があることで、支援してくれる人とつながれていた。
かつて嫌がっていたそのような役割をこなしたのは、13年のひきこもった結果、他に進むべき道を見出せなかった諦念のようなものが大きかったからだ。
人と関わるようになったということは、ある意味、他者と同じ舞台に立つというようなものだった。
ただ、同じ舞台に上がったからといってそれでなにかが達成されたとか、なにかが解決されたとかということではなかった。
自分の役になじめない部分があったのも事実で、葛藤は常にあった。
そのように自分の役割に葛藤する一方、自分の役割に割り振られたセリフ(期待されるセリフ)をうまく言えないと落ち込んだりもした。
緊張からどもることも多かった。
与えられたセリフを滑らかに言おうとすればするほど緊張は増し、言葉はぎこちなくなった。
さらに、上記のような支援される、支援するといった関係性だと、どうしても他者からの評価の目にさらされて、優等生、良い子であることが求められるような気がして、どうしても緊張がぬぐえなかった。
人との出会いや、関わり、会話というものには、こんなにパターンがないものなのか。
自分が感じている窮屈さは、あくまで今の私の状況ではしかたないことなのだろうか。
大学へ進学して、資格をとって働き出せばもう少し他者との出会いや関係性に幅がうまれるのだろうか。
もっと気楽にいろんなことを話せるようになるのだろうか。
もしかしたら、自分には社会生活を送るには大きな欠落があり、その欠落部分が埋まることは永遠にないのかもしれない。
そんなふうに思って怖くなることもあったけれど、今はまだ判断するには早すぎると自分に言い聞かせてなんとか乗り切った。
当時の私は話すことが得意ではなかったが、特に雑談に対する苦手意識が大きかった。
雑談なのだから、なんでも気楽に話せばよいのにと思われるかもしれないが、逆になんでもありということ、つまり正解がないということが不安で仕方なかった。
話す一言一言が、査定されているような気がして、意味のあること、面白いこと、知的と思われること、つまり価値のあることを言わなければならないというプレッシャーがあった。
話せばボロが出る気がしたからおのずと聞き役に回ることが多かった。
そして、雑談をしている人たちの恐れをしらない態度に戸惑ってもいた。
そんな中身のないことばかりしゃべって怖くならないのだろうかと。
けして馬鹿にしているのではなく、彼らの行為が命綱なしでバンジーをするのと同じことのように私には思えたのだ。
あるいは彼らは、私には見えない命綱を付けているのかもしれない。
それがどんなものなのか、どこにあるのか、必死に探すのだけれど見当たらない。
どうすればみんなのように、怖がらずに話せるようになるのか。
この怖さは、ひきこもりだったということや、今現在、社会に対して示せる実績のようなものがないというところから来ているのだろうか。
無謀にも見えたけれど、楽しそうな彼らを見て、私も思い切って飛び込もうとすることもあった。
しかし、いつも足がすくんで踏み出せなかった。
自分が傷ついてしまうのではないかという恐れがぬぐえなかった。
命綱さへあれば。
そう思ってあたりを見渡すのだけれど、命綱どころか、それを括りつけられるような頑丈なものもなにもない。
他者といると自分というものがひどく不安定で頼りないものに感じられた。
彼らのノリについていけず、その輪に入っていけない自分に落ち込んだり、彼らのやりとりをどこか軽薄なものとみなして、プライドを保ったりもした。
けれどどちらのスタンスもしっくりせずに、自分がどのようにふるまいたいのかが自分でも判然としなかった。
不思議なくらいに、人を前にすると言葉は消えてなくなってしまった。
そうなると自分が中身を失ったのカバンになったみたいに感じられた。
そもそも中身なんて最初からなかったのかもしれない。
必要最低限のことは言えるのだけれど、それ以外の話となると途方に暮れるしかなかった。
何かないかとカバンのなかを手でかき回してみるのだけれど、自分の手は何にも触れず焦りとやるせなさがつのるだけだった。
ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑯
おわり
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