ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑤
蛍光灯のノイズだけが聞こえる深夜。
脱衣所で入浴の準備をしているとき、涙がこぼれた。
季節は冬で、10代前半のことだった。
どうしてこんなことをしなくてはならないのだろう。
どうして普通にできないのだろう。
ただお風呂に入る、それだけのことじゃないか。
乾燥して鳥の足みたいに少しグロテスクにひび割れている自分の両手を見る。
かるく拳を握ると、皮膚が突っ張って痛みが走る。
嗚咽交じりのため息がこぼれる。
選択肢はない。
それは、西部劇か何かで罪人が縄で馬に縛り付けられて引きずられるのに似ていた。
この場合、引きずるのも引きずられるのも自分だったけれど。
真夜中の誰も起きていない時間に、自分だけが無駄に苦しんでいる。
脱衣所の明かりが、寒々しさを強調していた。
選択肢はない。
意を決するひまなんてない。
馬は私の意向など気にしない。
泣きながら服を脱ぎ、浴室の扉を開ける。
今回は強迫性障がいの症状が出ていた10代前半ごろのことを書いてみようと思う。
「戸締りはしただろうか?」「ガスの元栓はしめたっけ?」と少し不安になったような経験は多くの人がしていると思うのだが、そのような考えが自分の意思に反して常に頭の中に居座っているのが強迫性障害の症状の一つである「強迫観念」である。
また、物の配置が気になって何度も配置を微調整したり、「手をきちんと洗えただろうか」と不安になって洗い直したりするのが「強迫行為」といって「強迫観念」と同様に強迫性障害の主な症状の一つである。
それはこだわりと表現されることもある。
私の10代前半はこの「強迫観念」と「強迫行為」に支配されつづけた時期であった。
その始まりは、12歳か13歳ごろだったように思う。
学校に行っていないことにうしろめたさを感じていたため、自分でも何か勉強をしなければいけないと思い、漢字の読み書きの学習を自分で行っていた。
そして、漫画や本を読むとき、あるいはテレビを見ているとき目に入ってきた漢字を自分で書くことができるかチェックするために、一度目を閉じて頭の中で書いてみるということをしていた。
そのようなことを繰り返していくうちにそれは癖以上の何かになった。
それをやらないことには、いくら本の内容が面白くてもページをめくれなくなってしまった。
また、思春期だったこともあり、体重が増えることへの抵抗があった。
食べ物の脂質が気になって、箸で取り除けるものはそうしたし、液状の油はティッシュでふき取りもした。
そのようなこだわりがいくつもいくつも生まれていった。
そして、眠りから目覚めて、また眠りにつくまでの行程がほとんどこだわりに埋め尽くされるようになった。
目がさめてから布団を出るまでの手順。
布団のたたみ方、着替えの順序、食べものの用意の仕方、その後に続く行動もすべてが一本道のように、しかも綱渡りのように細い足場になって、毎回寸分たがわないように歩を進めなければ前に進めなくなっていった。
朝食のシリアルを食べる。
たった一行で描写が終わってしまうことも、箱の開け方、箱の中に入っている袋の取り出し方、器への入れ方、袋の戻し方、箱の閉じ方と、自分で決めたルールが無数の関門となって立ちふさがった。
そのようなこだわりのなかで一番つらかったのが入浴だった。
こだわりがひどいときは1回の入浴に3時間弱かかった。
体を洗う。
まず、左肩から前腕、手の甲、手のひら、指先。
洗っている途中で、なにかひっかかると、また左肩からやり直し。
それはほとんどのマスに「振りだしに戻る」と書かれてあるすごろくをやっているようなものだった。
体の部位がこんなにもあることを呪った。
両手は日に日にぼろぼろになっていった。
同じ入浴でも冬がとくに厳しかった。
それは夏と同じ手順で入らなければならず、湯を足すポイントも夏と同じでなければならなかったからだ。
体を洗い終わり、また湯船にもどるころにはお湯はすっかり冷めてしまっていた。
それでも、決められた行程を踏まなければお湯を足すことができない。
震えながら湯船に浸かるしかなかった。
なんでこんなことしているのだろう。
なんでこんなに苦しんでいるのだろう。
なんでこれ以外の方法で行うことができないのだろう。
くやしくて涙がでた。
何に対してのくやしさであるのか。
ただただこんなことをしている自分が嫌で嫌で仕方がなかった。
毎日が綱渡りをしているようで、腰をおろして休むことができる対岸はいつまでたっても見えてこなかった。
綱はピアノ線のように硬く、素足に食い込むようだった。
前に進むのも引き返すのにも苦痛が伴う。
このまま下に落ちてしまえたら。
そう願うのに、こだわりがそれを許してくれない。
選択肢はない。
このようにこだわりに支配される生活を送っていると、一緒に暮らしている両親の存在は自分のペース(こだわり)を乱す不確定要素のようなものとなった。
両親が何か新しい家具を買ったり、もともとあったものを処分したりすると、私は半ばパニックになった。変化に対応することができなかったのだ。
そんなときは、ただただ涙があふれた。
それに思春期であったことも加わって、親への反発心も起こり、自然と自室で過ごす時間が増え、お互いの生活リズムもずれていった。
その間、両親は親の会や、本などで不登校について学んだり、知識を得ていたりしているようであった。しかし、私はその行為によって自分が不登校児というカテゴリーでひとくくりにされているように感じ、両親に対する反発を強めた。
その気持ちの裏には、親に対する申し訳なさや、もっと自分を理解してほしい、あるいはもっと甘えたいという気持ちがあったようにも思う。
そして1人きりでこだわりに支配される生活が数年続いた。
そのようなこだわりに縛られる生活は私の精神を疲弊させていった。
精神が疲弊したというより、擦り切れてしまったという方が適切だろうか。
ある日、私は布団の上から文字通り動けなくなった。
15歳ぐらいの頃だった。
私と馬をつなぐ綱がちぎれて、馬はどこかへ消えてしまい、引きずられていた私は知らない場所にボロ雑巾みたいに取り残された。
強迫性障害の症状が去って、鬱病の症状がやってきたのだった。
自分が苦しみたちが行っている椅子取りゲームの椅子にでもなったかのような気分だった。
ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑤
終わり
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