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座礁する祈り
昼下がりの上野公園。リモートワークが常態化した今、気分転換に上野公園まで散歩することが増えた。それは勤務時間中であることもあるし、休日のランニングの目的地になることもある。この日は、木曜日の午後2時ぐらいに上野公園に出かけた。長い長いテレカンファレンスが終わった直後で、しばらくパソコンの画面を見たくなかったからだ。音声と画面の解像度が低いだけで、こんなに会話がストレスフルなものになるのかと自分でも驚く。ARだVRだの言う前に、しばらくは2Dのままでいいから音声と画面の解像度をあげて欲しい。
ローソンで買ったホットコーヒーのSサイズを片手に、不忍池に沿って西回りに歩いた。外出自粛要請の中であったが、意外にも上野公園にはたくさんの人がいる。ナイキで全身を包んでランニングをしている若者、並んでゆっくりと並んで歩いている老父婦、ベンチでコンビニ弁当を食べているオフィスレディ…「密」というには程遠い環境ではあったが、視界に映るだけでも20人ほどの人がいた。想像していた3倍ほどの人口密度だろうか。そもそも平日の昼間の上野公園なんて今まで来たことがないから、実はここにいる全員が同じように「案外、平日の昼間でも人がいるんだな」と思っているのかもしれない。
不忍池を横断する道を通って不忍池弁天堂を抜け、動物園通りに出る。通りに面した広場では、若い女性が縄跳びを飛んでいる。紺のネクタイを締めた同じぐらいの世代のサラリーマンが、ベンチで弁当を食べながらずっと縄跳びを飛んでいる女性のことを見ていた。ここまでくれば、ゴールまで5分もかからない。階段を30程上がって、大型の灯籠が並べられた短い参道を通れば、そこが上野東照宮だ。
コーヒーを片手に、ぼんやりと「絵馬」を眺める。それが散歩の楽しみの1つとなっている。
「東京大学に受かりますように」
「家族が健康でありますように」
「我想長壽」
「お金持ちになれますように」
「אני רוצה להיות עשיר」
「佐藤くんと結婚できますように」
「일본에서 아이돌이되고 싶다」
「子供を授かりますように」
「祖父の肺がんが治りますように」
「せめて、楽に逝けますように」
不揃いな願いが書きこまれた無数の絵馬を見ていると、砂浜から海を眺めている時と同じ感覚に襲われる。絵馬の掛所は、人々の願いが座礁する砂浜なのだろう。どこからともなくやってきた願いは、どこかへ向かうわけでもなく、同じ場所に累積していく。肥大化を止められない都市のように、最初は人為的に設けられた場所に些細な熱量が集積していき、次第に制御不能になっていく。言語化された剥き出しの願いに触れていると心が洗われると同時に、夜の海の深淵に吸い込まれていくような気分にもなる。
今年、彼は東大に合格することができたのだろうか。彼女は無事に結婚することができたのだろうか。わざわざ日本にやって来た韓国人はいまどこにいるのだろうか。祖父は闘病生活を乗り越えられたのだろうか。不妊に悩む女性は幸せになったのだろうか。
最初のうちは1つ1つ絵馬の願い事を読むことができるのだが、しばらく経つと思考が完全に停止してしまう。それこそ圧倒的な海の質量を前に立ちすくむのと同じだ。目の前の無数の願いに対して、自分自身は何も関与することができないし、その願いが叶ったかどうかさえ知る由もない。座礁した祈りを、ただぼんやりと眺めることしかできないのだ。
ふと我に帰ると、大体10分ぐらいそこに立っていることに気づく。そうして、何事もなかったかのようにコーヒーの残りを飲み干し、帰路に就く。その不可避な客観状態は、瞑想と似ているのかもしれない。わずかな虚無感が残りながらも、思考が一度リセットされているのだ。
参道を抜けて右に曲がり、そのまま南に下っていくと京成上野駅口に辿りつくことができる。入り口付近には、いつも浮浪者がダンボールをひいて寝そべっている。
彼は絵馬を書いたことがあるのだろうか。いま彼に絵馬を渡したら、どんな願い事を書くのだろうか。そういう自分自身は、絵馬に何かを書き込むことができるのだろうか。もしかしたら何も書くことができずに、呆然と立ちすくんでしまうだけなのかもしれない。