「ラヴクラフト全集 1」感想
クトゥルフ神話────。
メタルという音楽ジャンルを愛好する者の一定数が、一度ならず幾度となく名を見聞きしたことのあるテーマだと思う。実際、クトゥルフ神話は数多くのメタル・バンドによって歌詞、曲名、そしてバンド名に取り入れられてきた。最も著名であろうはMetallicaのインスト曲「The Call Of Ktulu」だが、本来のスペルはCthulhuであるものの、その名の出所は明確である。また、Morbid AngelのリーダーTrey Azagthothにしても、彼の名乗った名前がクトゥルフ神話に登場するAzathothから取られていることは言うまでもないだろう。
一方で、我々日本人にとってクトゥルフ神話はどれ程馴染み深いものなのだろうか。あの人間椅子には狂気山脈という曲があるし、私が中高生の頃に一部で流行った某ラノベ原作アニメの影響もあり、メタルが好きか否かを問わず、それなりの知名度はあると思われる。個人的に好きなゲーム作品であり、日本のゲーム会社フロム・ソフトウェアが出したBloodborneも、クトゥルフ神話に大きな影響を受けている。
ただ私個人で言えば、数々のメタル・バンドや作品を通して用語等はある程度頭に入っていたが、長きに渡って実際の作品を読んだことは無かった。名前は知っているけれど実際に作品に触れたことは無い、という日本のメタル・ファンは意外といるのではないかと推測するが、それはさておき、この度、私は遂にその名状しがたい邪悪な世界に触れることができた。
そもそもクトゥルフ神話というのは、Howard Phillips Lovecraft (1890-1937)の著した作品群が本人やその他の作家により体系的に書かれたSF物語である。その怪奇的で、ある種グロテスクで、得体の知れない世界観がファンタジーの分野に及ぼした影響は計り知れないというが、なるほどBloodborneをプレイしていればそうだろうなと思うし、メタルという音楽ジャンルにも強い影響を齎しているであろう。
Howard Phillips Lovecraft (以下、ラヴクラフト)は生前現在のような評価は得られなかったようだが、彼の出自について軽く触れると、本書の訳者あとがきにもある通り、彼はロード・アイランド州のプロヴィデンスという都市で生涯のほとんどを過ごしたという。アメリカの地図を見るとかなり小さな州であるが、事実同国最小の州であるらしい。地理的には米国北西部で、大西洋に面しており、北にはマサチューセッツ州、そして西にはコネチカット州を挟んでニューヨーク州がある。いやに詳しく地理について書いていると思われるかもしれないが、ラヴクラフトの作品を読む上で米国の地理をある程度把握しておく必要性を感じたからである。
ラヴクラフトの生きた時代というのは、日本で言うと明治の中頃から昭和の初期である。彼が生まれたのは南北戦争の25年後のことであるが、彼が20代の頃には第一次世界大戦が勃発し、39歳の時に世界恐慌が発生している。ラヴクラフトは47歳と比較的若くに亡くなっているが、没年には日中戦争が始まっている。現代の我々の感覚からすると、なかなか暗い世相の中生きた印象を受けるが、ラヴクラフトが20代半ばの時にはアインシュタインが一般相対性理論を発表したり、彼が40歳の時には、現在は準惑星に分類された冥王星が発見されたりと、物理学や宇宙科学が大きく進歩していた時代でもあったことは特筆に値するだろう。また、彼の生きた時代のアメリカでは今よりも遥かに人種差別が残っていたことも明記しておく。簡単ではあるが、ラヴクラフトの作品は上記のような時代背景の下、創作されたということは念頭に置いた方が良いかもしれない。
さて、今回私が読んだ「ラヴクラフト全集 1」は初版が1974年、訳者は大西尹明 (1918-2001)である。1974年は今から50年前であるが、HR/HM的には、Deep Purpleが『Burn』と『Stormbringer』をリリースし(Ritchie Blackmoreが最初に脱退する直前)、Judas Priestがデビュー作『Rocka Rolla』を出した年である(同年にBlack Sabbathはアルバムを出しておらず)。個人的にはプリーストが最初のアルバムを出した年というだけで半世紀という歳月以上の時間の意味の大きさを感じずにはいられないが、何が言いたいかというと、翻訳元の英文の古さが大きいのか、訳者の文章の癖(あるいは原文の癖か)も相まってか、時折分かりづらいと感じる箇所があったことは正直に告白する。とはいえ、通常のスピードで読み進めてもしっかりと頭に内容が入ってきたので、私は然程困らなかったが、これから読んでみようという方は、文章の好みもあると思うので、留意した方が良いかもしれない。
この「ラヴクラフト全集」シリーズは1巻~7巻、そして別巻が上下あるようだが、1巻となる本書には「インスマウスの影 (原題: The Shadow Over Innsmouth)」「壁の中の鼠 (原題: The Rats In The Walls)」「死体安置所にて (原題: In The Vault)」「闇に囁くもの (原題: The Whisperer In Darkness)」が収録されている。クトゥルフ神話的に重要となるであろうは「インスマウスの影」と「闇に囁くもの」だが、今回の感想記事では他の2つの短編についても触れようと思う。
※ここから先は大幅なネタバレを含むためご注意いただきたい。
インスマウスの影
本作は1931年に執筆された作品であるが(「クトゥルフの呼び声」より後年)、作中でクトゥルフのみならず、ショグゴス (Shoggoth)やル・リェー (R'lyeh)の名が登場し、私のように初見であっても聞いたことのある用語が出てきて、初っ端から胸が踊った。
タイトルにもある「インスマウス (Innsmouth)」は町の名前であり、作中冒頭において1927年頃に不穏な出来事があったことが書かれている。主人公である「わたし」はその当事者であり、物語の語り部となっている。
「わたし」がインスマウスを訪れたきっかけというのは、成人の祝いでニューイングランド地方を旅していたからであるが、このニューイングランド地方というのはラヴクラフトの暮らしていたロード・アイランド州も含む米国北東部を指す。「わたし」はニューベリーポート (マサチューセッツ州エセックス群にある実在する都市)から、母方の出身地であるアーカム (Arkham、架空の都市。名前の響きからBloodborneのヤーナムを連想させられる)を目指す道中で、初めて知ったインスマウスの街の不吉な話を知ることとなる。ニューベリーポートにおいて、「わたし」がまず聞いたのは、インスマウスが周囲の街から忌み嫌われていること、1846年の疫病、インスマウスの人達の奇妙な身体的特徴 (「インスマウス面」)、オーベッド・マーシュ船長の過去の不穏な動き、「悪魔の暗礁」、ギルマン・ハウスという宿の話等である。そして「わたし」はその後、ニューベリーポート歴史協会にて、インスマウスにて入手されたという非常に奇妙な、半魚人をも連想される冠を目にし、更には、「ダゴン秘密教団」なるインスマウスにて信仰されている宗教の話も耳にする(途中出てくるアーカムにあるというミスカトニック大学は勿論架空の大学である)。
序盤にて大方インスマウスという町の異様さが判明することとなるが、まずクトゥルフ神話に初めて触れる私が読んでいて思ったのは、随分とリアリティを持たせているな、ということであった。時代設定としてはラヴクラフト本人が生きていた時代であるし、実在の地名も登場する等、「神話」からイメージする物語像とは異なるものではないだろうか。そして読み進めていくにつれて、このリアリティが物語の不気味さを際立たせていることが分かる。
バスでインスマウスに向かう道中、「わたし」は随分と荒んだ街並みを眺めながら、「ダゴン秘密教団」の教会にて目撃した姿に恐怖することになる。とことんインスマウスの異常性が描写されているが、インスマウスの市中の店にて、店の若い店員(インスマウス出身ではない)から、ザドック・アレンという老人の話を聞く。店員が書いてくれた地図を手にインスマウスを歩く中、「わたし」はザドック老人を発見し、当地の話を聞くこととなる。
オーベッド・マーシュ船長に関する作り話のような昔話や、1846年にインスマウスで起こった恐ろしい出来事についてザドック老人は話し始めるが、次第に様子がおかしくなっていく。その途中で、読んでいる私もニヤリとさせられた次のような台詞が出てくる。
まさしくクトゥルフ神話といった具合の呪文のような一節が出てくるが、英語で書くと次の通りである。
この常軌を逸した、正確な発音も不明な異質な言語を、ようやくラヴクラフトの作品で堪能できたという意味でも、やはり読んで正解だと思わされた瞬間であった。
さて、すっかり豹変してしまったザドック老人と別れた「わたし」は、彼から聞いた奇怪で忌まわしい逸話に不安を覚えずにはいられなかったが、なんと不運なことに帰りのバスのエンジンが故障し、泊まる予定のなかった例のギルマン・ハウスに宿泊することとなる。最序盤に「インスマウスの町から無我夢中で逃げ出した人物こそわたし」とあるように、その夜中ギルマン・ハウスで恐ろしい思いをし、どうにか逃げ出したものの、追手から逃げる最中、地球上の生物とは思えない魚人のような異形の集団を目撃することとなった。
かくして、「わたし」のインスマウスにおける恐ろしい体験の回想は終了するが、この後の展開で私は読みながら度肝を抜かれた。ここまで既に結構な量の粗筋を書いているので、これ以上どこまでネタバレするか悩ましいが、いずれにせよ、衝撃の結末であることに違いない。気になる方は是非読んでみて欲しい。
ちなみに、上記の異形の集団というのは、本書では「深海のもの」を指すが、一般的には「深きものども (Deep Ones)」と呼ばれる。彼らの海底の棲み処は本書では「ヰ・ハ・ンスレイ」と表記されているが、これは原書でいうところのY'ha-nthleiとなる。
「インスマウスの影」では深海に住まう異形の種族が主に登場するため、所謂「コズミック・ホラー」的な側面は「闇に囁くもの」の方が強く出ていると感じるが、しかし展開の妙を鑑みた時、そして、日常に潜む異常をここまで劇的に描いた点を鑑みた時に、本作が代表作の1つとして、全集の出だしを飾る作品として収録されたのは合点のいく内容であった。読み終わった時には、なるほどこれがラヴクラフト作品かと思わされたし、この世界観に惚れ惚れとさせられた。BloodborneのDLC終盤で出てくる「漁村」は間違いなくここから着想を得たものであろうし、メタルにおいては、あのChristian Muenznerのソロ作品に「Shadow Over Innsmouth」というインスト曲が、また、米国の後期Death影響下バンドであるHemotoxinの初期シングル作品のタイトルは、ずばり「The Shadow Over Innsmouth」である等、「インスマウスの影」が完全にメタル向きの題材であることが分かる。メタルヘッド必読の傑作と言って相違ないだろう。
壁の中の鼠
「インスマウスの影」が1931年に執筆されたのに対し、「壁の中の鼠」は1923年に執筆された作品である。この短編においては、クトゥルフ神話の雰囲気は薄いと私は感じたが、ニャルラトホテプ (Nyarlathotep)の名は後半に登場するし、ラヴクラフトによって書かれた作品であることは明確だろう。
今回の主な舞台はアメリカではなくイギリスはウェールズであるが、主人公であるデラポーア家の「わたし」は、かつてウェールズの地に住んでいたものの、アメリカはヴァージニア州へと逃げた11代目のイグザム男爵ウォルター・ド・ラ・ポーアの末裔であるという。このウォルター・ド・ラ・ポーアなる人物は、イグザム修道院において一家を自身の手にかけるという恐ろしい殺人事件を起こした上でアメリカへと逃亡しているわけだが、つまるところ主人公の「わたし」はそうした呪われた血統であるというわけである。
そんな血塗られた過去があるにも関わらず、訳あってわざわざイグザム修道院を再建してそこに移住した「わたし」であるが、そもそも初代イグザム男爵ギルバート・ド・ラ・ポーアが1261年にヘンリー三世からかの地を賜って以来、イグザム修道院は周囲の住民からは忌み嫌われていたようである。そうした不吉な、いわくつきの土地に住み始めたものなので、案の定「わたし」は奇妙な出来事に遭遇することになる。
まず手始めに「わたし」が寝ている時、飼っている猫、その名を「黒すけ」という(原書ではNigger-Manという名前のようだが、当時のアメリカではそんな名前を飼い猫に付けるものだったのだろうか)、が何もいるはずの無い壁に向かって興奮し始め、更にはいるはずの無い鼠の音を耳にする。また、「わたし」は世にも恐ろしい悪夢を見るようになり、原因解明すべく「わたし」の息子(既に故人)の友人ノリスと、イグザム修道院の地下室を調査することとなる。そこで地下室から更に地下へ行けることを発見し、調査隊を編成しそこに挑むこととなった。
その隠されし地下世界は地獄の様相を呈しており、人間の骨のみならず、人間は人間でも原始的な人類の骨までも大量にある始末で、何故そんな恐ろしい洞窟がイグザム修道院の地下にあるのかについては、禁断の所業がかつてド・ラ・ポーア家によって執り行われていたことは、想像に難くない。
物語終盤において、忌まわしい血統の末裔である「わたし」は例の地下洞窟にて次第に様子がおかしくなっていき、最後には英語ではない言語を口走りながら、体を半分食われたノリスの上にしゃがみ込んでいるところを発見される。その後は、ノリスの件は自身ではなくあの鼠どもの仕業であると、ハンウェルの地にある座敷牢で主張しながら、物語の幕が閉じられる。
初めは正気であったにも関わらず、忌まわしき血筋にある語り部たる主人公が、恐ろしい出来事に遭遇する中で狂っていくという描き方はラヴクラフトが好んだような手法であるようだが、「壁の中の鼠」はとりわけその狂気がおどろおどろしくグロテスクに描かれている作品であった。壁の中を走り回る鼠と豚飼いの現れるおぞましい悪夢、そして誘われるように導かれた地下奥深くでの一族の呪われし歴史の跡、更には「わたし」自身の狂行・・・。クトゥルフの側面は薄いが、これまた一読の価値ある作品であった。
死体安置所にて
1925年に執筆された短編たる本作は、これまでと打って変わってクトゥルフ神話とは関係が無いが、裏表紙にて「ブラックユーモア風」と評されている通り、なかなか異色な作品である。
葬儀屋を営んでいたジョージ・バーチという人物から聞いた彼の体験談を彼の死後に「わたし」が語るといった内容であるが、個人的には純然たるホラーには恥ずかしながら弱い性質であるので、その終わり方にはなかなかゾッとさせられた。言ってしまえば、バーチが死体安置所にておかしたヘマによる怪我が、彼自身の死体に対するぞんざいな扱いによるもの、というオチであるが、そもそも死体安置所に閉じ込められるという展開からして恐ろしいし、比較的軽快なタッチで書かれているものの、オチ自体もホラーであるため、そういったホラーが苦手な向きにはおすすめできないかもしれない。ただ、長さ的にサクッと読める上、そうは言っても秀逸な終わり方ではあるので、この全集におけるアクセントとして読むことができた。
闇に囁くもの
本作は1930年に執筆された作品であるが、本書においてもとりわけ「コズミック」な感触が強く、その恐ろしきクトゥルフの世界を味わうことができる。
まず本作の主な舞台はアメリカはヴァーモント州である。地理的にはマサチューセッツ州の北部にあり、カナダと国境を接していることからアメリカ全体で見てもかなり北東部にあることが分かる。主人公である「わたし (アルバート・N・ウィルマート)」はマサチューセッツ州のアーカム (「インスマウスの影」でも登場した架空の地名)にあるミスカトニック大学 (こちらも同様に登場した架空の大学)で教鞭を執っている。事の発端は1927年にヴァーモント州にて発生した洪水であるが、その洪水にて奇妙なものが目撃された。その目撃された姿というのは、
というような特徴を持ち合わせていた。5フィートは1.524 m程であるが、この異質な生物として大きいと感じるか小さいと感じるかは人それぞれである。少し背の低めの女性程の大きさの謎の生物と考えると、私個人的にはなかなかに気味が悪い。
それはさておき、民俗学に精通したウィルマートはその異様な生物に対してはじめ懐疑的な意見を主張していた。というのも、そのような生物に関する民話はヴァージニア州の右隣にあるニュー・ハンプシャー州に存在し、白人間のみならずインディアン (現代的にはネイティブ・アメリカンと書いた方が適切だろう)の伝承にも伝わっており、共通して上記のような特徴を有し、その生物が地球外生命体であろうといったような内容となっているからであった。冷静に考えてそんな生物なんているはずが無いし、(日本で言うツチノコのような)地域由来の伝承と結びついたに過ぎない、とウィルマートは考えていたといったところだろう。
そんな中で、ヴァーモント州に住む民俗学に詳しいヘンリー・エイクリーなる人物から上記の件について手紙が届く。エイクリーについては物語冒頭で言及されており、どうやら跡形も無く行方をくらましてしまったようだが、この「闇に囁くもの」では手紙が重要な舞台装置として役割を果たしている。
最初の手紙において、エイクリーは自身が事の真実を掴みかけていることを仄めかしているが、この手紙にはヨグ・ソトホート (ヨグ=ソトース)やらクトゥルフやら「死霊秘宝 (ネクロノミコン)」といった用語が出てきて、クトゥルフ神話の空気感が強まってくる。エイクリーは件の生物の足跡を見たことがあると言い、更にはその声を蓄音機によって録音までしたと書いてある。ここにて、その生物の特徴、それも宇宙的な特徴が記されている。元来は「惑星間の空間」に住んでおり、「エーテルに対して自由自在に抵抗できる力づよい翼」でその空間を飛べるとのことである。ここでいう「エーテル」はかつてアインシュタインの特殊相対性理論によって存在が否定された宇宙空間に広がっているとされた光の媒質について指しているものと思われる。
更にエイクリーは、自身が知り過ぎてしまったがために、人間界に紛れ込んだスパイに監視されているとまで書いていた。ウィルマートは勿論疑いにかかるが、一方で手紙から受け取ったエイクリーの人柄より、彼の齎した情報に興味を持つこととなった。そして返事した後に受け取った写真や、ユッグゴトフ (Yuggoth)、クトルゥフ、ツァトホッグァ (Tsathoggua)、ヨグ・ソトホート (Yog-Sothoth)、ル・リエー (R'lyeh)、ニャルラトホテプ、アザトホート (Azathoth)、ハストゥル (Hastur)等に言及された手紙を読み、ウィルマートはその異常な現象について信じ始めていた。
遅れて届いた例の声が録音されたレコードも、読み手をぐいと引き込むような、そんな効果的な役割を果たしている。ダーク山 (エイクリーの住んでいる場所の近くにある山)にて録音されたそのレコードには、忌むような儀式が行われている音声が記録されていた。その中には人間と思しき声も、人間とは思えない声も録音されていたが、上で挙げたような邪神の名を出して崇めているようであった。その中に、
という一節があるが、これは原書で言うところの
であるが、本書における訳は誤訳ではないだろうか。一般的に「The Black Goat~」の箇所は「千匹の仔を孕みし森の黒山羊」等と訳されているようだが、「with a Thousand Young」はその訳の方が正しいと思われる。前後の文脈から「千人の若者の生贄を」と意訳したと考えられるが、withは文法的にも生贄を捧げると訳すのは不自然であり、ここは「a Thousand Young」を伴った森の黒山羊、といった風に捉えるのが正解だろう(「孕みし」と訳しているのはおしゃれ)。
話を本編に戻すと、スパイに監視されているというエイクリーであるが、ウィルマートの送った手紙が紛失したり、エイクリー宅の近くで目撃される「爪痕」が増えたりと、ますます状況が悪化する。更に、エイクリーが発見した未知の象形文字が刻まれた黒い石をエイクリーがウィルマートに発送したところ、そちらも紛失し、どうやら妙な声を出す男が関係しているようだった。いずれにせよ、状況はここからも更に切迫していき、夜には銃撃戦が発生、そして遂には例の怪物の死体を目撃し、写真を撮影したという。だがその死体は直に消えてしまい、現像してみると跡形も無く消えていたらしい。そのことが記された手紙からはもはや諦めの念を読み取ることができ、ウィルマートに対してはエイクリーの許には訪れず、くれぐれもこの出来事に巻き込まれないよう忠告が書かれていた。
ところが事態は再び一変し、今度は打って変わってタイプライターで書かれた手紙が届く。そして驚くことに、エイクリーは例の生物達と接触し、彼らは太陽系の9番目にあたる「ユッグゴトフ (Yuggoth)」という惑星 (当時発見されたばかりの冥王星から着想を得ていると思われる)を棲み処としており、菌類のような種族(所謂、「ミ=ゴ」)である旨が書かれていた。そしてあろうことか、前言撤回をしウィルマートを自邸へと招待していたのである。
そして、ここで辞めておけば良いのに、ウィルマートはエイクリー宅を目指すことになるが、約束通りブラトルボロ駅 (ブラトルボロはヴァーモント州にある実在する町)に降り立つと、そこで待っていたのはエイクリー本人ではなくノイズ (Noyes)という男であった。この時点で怪しさ満点であるが、エイクリー宅においてウィルマートは異様なものを目撃することになる。
さて、ここまで長々と粗筋を書いてきたが、「インスマウスの影」と同様、肝心のラストは伏せておこうと思う。これまた衝撃の結末であるが、途中出てくる脳髄の入った円筒のくだりや、エイクリーの語る宇宙的秘密など、私が粗筋を書くのを中断した箇所以降も、もうしばらく物語は続く。そして、その結末については、1つの解釈に留まらない、ミステリアスな終わり方をしているというのも面白い。手紙やレコードといった、現代の私達にも馴染みのある物を用いて、この不気味な物語を進行させていく手法は、上でも書いたようにかなり効果的であるし、特に手紙については無類の手紙魔だったらしいラヴクラフトらしい演出だったと言って良いと思われる。ミステリアスなエンディングというのも、やはり読み手の想像を搔き立てつつ、物語全体の気味悪さを増長させていて、しつこいようだが非常に秀逸であると感じた。
この「闇に囁くもの (The Whisperer In Darkness)」も当然ながらメタルの分野でモチーフとして用いられており、現Scar SymmetryのボーカルRoberth Karlssonがベーシストとして在籍したスウェディッシュ・デスメタルバンドDarkifiedに「The Whisperer In The Darkness」という曲名があるし(ちなみにDarkifiedの音源集はCthulhu Risethと題されている)、フロリダのデスメタルレジェンドMassacreの2021年作には本作品と同じ曲名の曲がある(ついでに「The Innsmouth Strain」という曲もある)。こうした元ネタを知る、という意味でもやはりラヴクラフトの作品を読む重要性を今回理解させられたし、まだまだ私の知らないラヴクラフト影響下の曲名や歌詞が、色々なメタルの作品に散りばめられているのだろう(上ではデスメタルばかりになってしまったが、他のサブジャンルでもラヴクラフトがテーマのバンドはいるので気になる方はチェックしてみてはいかがだろうか)。
というわけで、今回初めて読書感想文のような記事を書いたが、クトルゥフ神話的に重要な「インスマウスの影」「闇に囁くもの」の2作について、最後のネタバレは控えさせてもらった。正直大まかな粗筋を書いてしまっているのでそこまで書いても良かったかもしれないが、とはいえこういうスタンスでも良いと判断した。少し検索してみるだけでも、結末まで書いてしまっている記事が見つかるので、もしここまで読んだ方がいて気になる方がいれば、そちらを参照していただくのも良いとは思うが、とはいえせっかくであれば一読していただきたいと思う。特にメタルヘッド諸氏で未読という方は一読の価値ありだと思うので、是非ともおすすめしたい(Amazonで安価で購入可能)。
この記事を書いている時点で私の手元には既に「ラヴクラフト全集 2」があるのだが、備忘録的な意味でも、感想記事は書きたいと思っている。ただ、今回思っていた以上にボリュームが大きくなってしまったのと、需要が無さそうな自己満足的記事となってしまったため、一旦検討した方が良いかもしれない。
それではまた次回の記事でお会いしましょう。