ときには見捨て、そして寄り添う
とある勉強会。
釜石にすでにあるもので、
住民が気づいてない価値はなんだろうか、
を話し合っていた。
わたしは津波伝承施設と防災学習だ、
と力説した。
これには伏線があって、
釜石市国際外語大学校に立ち寄ったとき、
「知り合いが釜石に来た、どこに案内する?」
ブレーンストーミングをやっていたときに、
世界遺産も大観音もいいけど、
未来とか将来とかにつながる施設とか場所とは?
と。
「それはもう、いのちをつなぐ未来館やないか〜」
と。
未来館の展示はコンパクトにして明快簡潔。
実際に津波を経験した語り部が説明役だから、
リアリティがある。
そばには祈りの広場があるし、
ちょっと歩けばうのスタもある。
(釜石鵜住居復興スタジアム)
「それはもう、ぜったい未来館なやいか〜」
ということで、場面はとある勉強会に戻り、
「すでにある価値」の続きをブレストしていた。
「ぜんぜん違う方向に話はいくかもだけど」
とある介護関係者。
ブレストに「ぜんぜん違う方向」の話は大歓迎だ。
「介護施設が津波や洪水に襲われそうだ。
目の前にはベッドに寝たきりの高齢者がいる。
さて、どうする?」
答えはみっつ。
・担いで逃げる
・そこに置いて逃げる
・そこでいっしょに死ぬ
正解は、
・そこに置いて逃げる
介護とは、寄り添うことである。
というのが大前提。
もうひとつ、大前提がある。
災害が発生したとき、介護士が活躍するのは2週間後である。
そこまでは医療従事者。
だから、医者は「とにかく逃げろ」と教育される。
被災地の避難場所や避難所に医者がいなければどうにも困る。
しかも被災時の医療には「トリアージ」というのがあって、
治療する優先順位をつける。
それは「歩けるか?」から始まる確認工程によって、
「緊急治療」「準緊急治療」「待機」「死亡」
とレベルがはっきりしている。
どんな状態でも歩ければ「待機」だ。
そこには「情」は介在しない。
介護も、
「ときには見捨てる」
自分が生き延びて、ほかの要介護者に寄り添うために。
釜石よりほかの地域にもこうした緊急時の介護教育はあるだろうか。
福祉とはなにか。
「ふだんの くらしの しあわせ」
普段じゃない、非常時の福祉とはなにか。
専門家だけではなく、
非常時の体験を持った市民が参加して考えられるのが、
釜石独自の社会資本ではないだろうか。