敗戦記念日、と呼ぶようにしている。
敗けた、ってことが重要だと思っているから。
始める前から敗けるとわかっていた戦争、ってことは
『昭和16年 夏の敗戦』や『経済学者たちの日米開戦』に詳しい。
『昭和16年』は、内閣総理大臣直轄のシンクタンク「総力戦研究所」が、
『経済学者たちの』は、陸軍のシンクタンク「秋丸機関」が、
経済力、産業力、それによる戦闘能力は圧倒的にアメリカに劣る、
と判断。
だから戦争はやってはいけない、絶対に敗けるから。
果たして敗戦。
なのに「終戦」と呼ぶのは、
そう呼ばせたほうが都合がいい、という人たちがそうさせた。
敗戦記念日にすれば、
戦争は敗けたことになり、
敗けたのなら敗けた責任を取らないといけない。
敗けた責任は誰がとるのか。
政治的にも軍事的にも、
トップは天皇陛下である。
「終戦」ならば、始めた責任は曖昧になるし、
終わらせた英断、ということができる。
云々(でんでん……)。
田原総一朗さんと戦後の政治史を調べているときに、
何人もの学者や研究者がそういっていた。
その曖昧さが『永久敗戦論』のスタートになっていって、
今に至る。
たしかに、敗けたと思いたくない人たちはいた。
けど、一般的な人たちは、
「やっとこさ終わった」
だったのか。
家族を殺されて、怒り心頭な人たちはいなかったのか。
あまりにひどすぎて、茫然自失だった、
という説もあるぐらい。
ともかく、
敗戦を終戦と言い換え、ごまかしたことは、
ガバナンス的には大成功だった。
そしてその言い換えごまかしは、
今に至る。
合理的に考えればアメとムチが外交なのに、
ムチしか考えられない単純さ、
いい結果はでないとわかっていても突っ込んでいく不条理さも、
今に至る。
合理的な報告書を「なかった」ことにするのも、
今に至る。