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ネガティブだからって悪いわけじゃない
佐渡島庸平さんの『観察力の鍛え方』を読んでいる。
「ネガティブバイアス」というのがあって、
ポジティブな情報よりも、ネガティブな情報に目がいきがち、
ネガティブな情報に価値を置きがちである傾向が、ネガティブバイアス。
たしかに、いいところよりもダメなところに注目するし、
「しょせんムリ」と思いたがるし、
「たぶん失敗するからやらない、失敗するであろう理由は……」
と「やらない理由」を考え出すのに熟達している人たちはたくさんいる。
だけどそれは、生きていく上の本能でもある。
野生な時代、自然の中には危険がいっぱい。
だから、潜んでいる危険に対する無意識な注意喚起がネガティブバイアスのそもそものところ。
(だから、なんでもネガティブに考えちゃう人は、ダメな人ダメな性格なんじゃなくて、生存本能が強い人である、という考え方もできる)
『観察力の鍛え方』のそのあたりのところをふむふむ読んでいた。
幸福論のアランは、
「悲観主義は気分だが、楽観主義は意思である」
といった。人は放っておけば悲観主義になっているのが当たり前で、
楽観主義になるにはそれなりの意思とか覚悟とかが必要、
というほどの意味。
ロシアの作家トルストイは『アンナ・カレーニナ』のなかで、
「幸福な家庭はそれぞれ似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸」
と書いた。
なるほど、幸福には定量的なパターンがありそうな感じがするが、
不幸には「そんなことあるの?!」と、びっくりすることがしばしばあるほど、
不幸にはパターンが無限にありそう。
だけど、佐渡島庸平さんはこう書いている。
ここで重要なのは、失敗の姿が多様なことと、失敗する確率が高いことは別である、と知ることだ。多い浮かぶ幸せの姿が1%で、残り99%が失敗の姿だとしても、確率99%で失敗するわけではない。
たしかにそうだ。失敗のパターンがたくさんあるから「ぜったい失敗する」わけじゃない。
だから、失敗しないように準備することが必要だし、
準備をしても失敗したり、想定外のことが起こったりすると、
「それがどうした」であり、
「それはちょうどよかった、だったらこうしよう……」である。
楽観は意思であり、
悲観は本能である。