大丈夫だ〜、あいつらはラガーマンだから(釜石までの道2011年〜2020年⑤)
2011年8月。
青山学院中等部のラグビー部員をのせたバスは、
釜石市内から少し離れた鵜住居という町にある宝来館に到着した。
宝来館は根浜海岸に面してたち、
津波に襲われたが、
4階建ての建物の1階2階は壊されたものの、
3階と4階はかろうじてそのままだった。
中学生たちが宝来館にやってくる前の日、
仮りの厨房には大きな冷蔵庫がふたつ入った。
仮りの食堂にはすのこを敷いて、
その上にウレタンマットを敷いて、
ブルーシートを被せて、座卓を並べた。
座布団などはない。
3階と4階はトイレが使えるし、明かりもつくが、
1階は復旧の途中も途中、コンクリートがむき出しで、
天井からの照明は、急ごしらえの裸電球。
だけど、食事には差し支えない。
エレベーターは壊れたまま。
階段は外階段と内階段との区別もないぐらい損傷が激しいが、
階段の上り下りには問題ない。
客室は少しすえたニオイが残っているが、
布団も畳も被災前の状態にある。
仮りの仮りの、そのまた仮りのプレオープンのテスト営業、という感じだった。
おかみさんの岩崎昭子さんは、
40名の中学生を前にして、簡単な挨拶をした。
津波が襲ってきたときの様子、その津波にのまれてしまったこと。
奇跡的に助かって、裏山の避難道を駆け上がったあと、
腰が抜けて動けなくなったこと。
あたり一面は全滅したが、
宝来館は下半分こそめちゃくちゃになったけれども、
上半分はそのままだったこと。
そのあと数日は、宝来館は生き残った人たちの避難所になったこと。
おかみさんは、
「みなさん、こんなところでびっくりしたでしょう。
6月にね、そこにいる増田さんから話がありました」
釜石シーウェイブスの事務局長、増田久士さん。
今回、青山学院中等部ラグビー部が釜石に来て、
復興中学生ラグビー大会を開いた立役者のひとり。
おかみさんの挨拶のつづき。
「いいよ、って返事したかもしれないけど、
ホントに来るとは思ってなかったのでね、
この一週間前に電話で断ったんです。
『増田さん、やっぱりムリだ〜』
って。
あなたたちはお父さんお母さんにとって大事な大事なお子さんたちです。
ここには、お子さんを亡くした親、親を亡くした子どもたち、
そんな人たちがたくさんいるから、わたしにはそれがよくわかる。
だから、そんな大事な生命を預かりきれる自信がなくなったんです。
そしたら、増田さんはいいました。
『大丈夫だ〜。やつらはラガーマンですよ』
って。
ラグビーって、仲間を助けながら、相手を倒しながら、
一人ひとりがみんなの役に立つように動く、
っていうスポーツですよね。
だからあなたたちのお父さんもお母さんも、学校の先生も、
こんな被災地のど真ん中に、
3月に被災してまだ日の浅い8月に、
あなたたちを合宿に送ることができたんですよね。
増田さんにそういわれて、それもそうだな、
と思ったのが受け入れる覚悟を決めた理由のひとつ」
おかみさんの話は続く。