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うにしゃぶとジャズ

娘が釜石に遊びに来た。

4年前にも一度来てる。
そのときは、離婚して移住したばかりで、
ちゃんとやってるのか、心配してくれてたらしい。

コロナのころで、娘に釜石らしいものを食べさせたいけど、
街なかでは「東京からの人は……」的な雰囲気があり、
気を使って友人のはまちゃんが自宅に招いてくれて、
鍋をふるまってもらった。

今回は、彼氏を連れてきた。

釜石を知ってもらうには、「いのちをつなぐ未来館」が一番。
釜石線から三陸鉄道に乗り換えて、鵜住居駅。
「祈りのパーク」でお祈りをして、
未来館で3.11の様子をしっかりとガイドしてもらった。

未来感の館内ガイドの語り部さんは何人かいて、
それぞれ強調するポイントや伝え方に特徴があって、
誰からでも何度聴いても学びになるし、
ムネアツになる。

今回は川崎杏樹さんだった。
川崎さんは1996年生まれ。
震災当時は釜石東中学校の2年生だった。
つまり、鵜住居小学校と釜石東中学校の児童と生徒たちが手を取り合って声かけ合って逃げた当事者だ。

最初に避難したごさいしょの里(海抜4m)から、
そこじゃまだ危ないってことでさらに上へとデイケアセンターへ(同15m)。
鵜住居での津波の高さは11mだから、
その判断はまったく正しかった。

川崎杏樹(あき)さん

避難地点では集団パニック状態であったこと、
その中で弟や妹を探して抱きしめる兄や姉、
保育園児をカートに乗せて駆け上がった中学生、
先生の指示を待たずに自分たちの判断で逃げたこと、
あと5分、学校を出るのが遅かったら……。

「生命を救ったのは防災学習」
と川崎さんはいう。

座学だけじゃなくて、いろんなパターンで学んだ。
体調不良の人がいる、ケガした人がいる、
体調不良の本人役、ケガした本人役。
地元の人たちと街歩きをして、オリジナルなハザードマップ作り。

パニックになっても、茫然自失になっても、
逃げることができたのは身体が覚えていて、
無意識に動けたからだろう。

知識を入れて、意識してそれを実行し、やがて無意識に動けるようになる。
知識、意識、無意識。

「防災意識は、そうそう高いままではいられませんよね」(川崎さん)

いのちをつなぐ未来館を出て、
ちょうどタイミングよく来たバスに乗って、
ホテルの近くのバス停で降りてチェックイン。

市役所横の避難道、魚河岸テラス、グリーンベルト、
歩き回って、イオンに寄ってちょこっとお買い物。
マミーでうにしゃぶを食べて、タウンハウスでジャズを聴いて、
釜石を堪能してホテルへ向かう。

別れ際に娘がなにか言っていた。
大事なことだったようだが、
聞こえなかったことにした。

無意識に脳みそがそう反応した。