フィジーの人はときどき、
Why?
って尋ねられたら、
No reason.
って答えるらしい。
たとえば、英会話学校でスタッフを募集した。
それに応じてやってきた若い人(じゃなくてもいいんだけど)。
「なぜ弊社で働きたいと思ったんですか?」
と尋ねたら、
「別に……」
って答える。
たぶんわたしなら、「理由なんかないよ、ただ働いておカネが欲しいだけ」と思っていても、必死に意味づけするだろう。
御社の経営方針がすばらしいから。
御社の実績がすばらしいから。
生徒さんとか先生たちの役に立ちたいから。
自分もついでに英語力をつけ直したいから。
いまは、
「役に立つ、便利」から「意味がある」ことへ重心が変わった、
ということがいわれている。
モノは十分に行き渡った。これ以上「不足」はない。
求められているのは、「便利」ではない「意味がある」。
モノ消費ではなく、コト消費である。
だから、たとえば観光でも、
神社仏閣、風光明媚を訪ね、名物料理を食べる、
という従来の観光から、
漁船に乗って養殖している牡蠣を見に行ったり、
レストランのそばの畑で採った野菜を食べる、
という体験型の観光になってきている。
世の中、意味があることを求めている。
でも、意味がないことをやるってことも、
実はすばらしいことじゃないかと、
昨日、「余白と変化の学校」の3回目のオンライン対話に参加して思った。
実はすばらしいこと、と思ったらすぐに思い出した。
自分でもそれを大隈塾(リーダーシップ研修)に組み入れてた。
5月の田植え合宿での2日目。
初日の田植えでの疲れ、宴会での二日酔い、
きっと何かの作業をしても、効率上がらないし、あんまり意味がない。
であるならば、何にもしない2時間、を体験してもらう。
シンプルな朝ご飯を外の大きなテーブルで食べ終わったら、
自然の中でぼーっとする。
本を読む。
そのまま眠ってもいい。
だけど、人と話をしたり、スマホをいじくったりしちゃだめ。
これが案外好評だった。
2時間の余白をつくる。
余白を楽しんでみる。
たぶん家の中よりも、どこか山か海かに出かけていったほうがいいかも。
その際は、釜石でお待ちしております。