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2024年12月29日ウズベキスタン3日目(ブハラ→シャフリサブズ→サマルカンド)
朝7時発でブハラをたってシャフリサブズに移動。工事中の箇所もあってかなり揺れた。トイレ休憩は1時間ごと、幹線道路沿いのガソリンスタンドを使う。水洗が機能している。一回2000-3000so’m、日本円で三十円の使用料金がかかる。日本でも山のトイレなどはすさまじいことになっていることがある。使用料金をとってきれいにしてもよいと思う。ミネラルウォーターを買ってみるとガスありがgazlanganガズランガン、ガスなしがgazlanmaganガズランマガンとあって動詞の否定形が使われていることがわかった。他にもひまわりの種、pistaがあってTuzsiz トゥズシズ、tuzli トゥズリ、tuzlangan トゥズランガンの三種があった、調べると、Tuzsizが「塩気のない」、もしくは「つまらない」、tuzliは「塩味」、tuzlangan「塩茹で」の順。塩はtuz。ついペルシア語のنمکナマクが出てくるが通じないだろう。
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他のガソリンスタンドでトイレを使うと横にラクダの群がいた。スタンドの女性店主にBu tuyalar siznikimi? ブ トゥヤラル シズニキム?(このラクダたちはあなたのですか?)と聞くと、そうだと頷く。ラクダの乳をボトルに詰めて道路沿いで売るらしい。店内の会計は小学生くらいの女児がしていた。チョコレートの菓子を買った。
昼過ぎにシャフリサブズに到着。その後アクサライ宮殿跡(タイトル写真)を見た、14世紀にティムールが生まれた都市。ティムールは遠征中に亡くなったので結局サマルカンドに葬られたとか。シャフリサブズの名前は都市を意味するシャフリと緑のサブズから成るそうだ。シャフリはペルシア語شهرシャフレからとわかるがサブズはヒンディー語のसब्जीサブジー、野菜をイメージしてしまう。野菜が名産の街かと思っていた。そうではなく緑の古語がサブズらしい。日本でいうと緑園都市だろう。
その後サマルカンドに移動、レストランで大きいナンが出た。残した分はもったいないのでジップロックに入れて持ち帰った。サマルカンドへはタフタカラチ峠(高度1700m)を越えて1.5時間の予定が我々の車では通れないとのことで3時間かけて回り込んで移動。山道で車ごと滑落するよりよっぽどよい。
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サマルカンドでライトアップされたレギスタン広場を見る。三つの建物があるが、14世紀ごろそれぞれ20年ほどかけて作られたもの。傾いたミナレットもあるが基礎の土を掘って修正したものもあるとのこと。青の都、イスラム世界の宝石と言われるがその言葉すら足りないほど美しい。ホテルはガガーリン通りの107番地にあるJahon Palace hotel。天井が高くて装飾はロシア式、なんとなく宮殿のよう、廊下には19世紀に記録されたサマルカンドの写真が並ぶ。ガガーリンは言わずと知れたロシアの宇宙飛行士、その名前が残るのはやはりソビエトの時代を彷彿とさせる。
この旅行中、ウズベキスタンはもう一つの日本のように感じていた。ロシアの周辺国という意味で二つの国は繋がっている。日本は1860年代の明治維新を経たあと日露戦争を経験した。一方、ウズベキスタンはロシア帝国の保護国になったあと、1910年代の革命でソ連の構成国になった。もし日本に明治維新がなく、日露戦争も起きなくてソ連の一部になっていたらどうだったか。西郷隆盛も坂本龍馬も活躍せず、無名の田舎侍として消えてしまった世界。京都の公家や神職は追放されて、武家の子供たちはモスクワの士官学校やサンクトペテルブルクの大学に留学していたかもしれない。盆踊りやなまはげのような文化は残るだろうが、高等教育はロシア語で行われて、いまのウズベキスタンのようにロシア語の単語が日本語に多く入っていたに違いない。そんな世界でも、日本の漫画やアニメは生まれていただろうか?