感情を表現しきれない中で、サポーターとしての自分の在り方を考える
私はあるJリーグチームを応援している。
Jリーグでは、中断期間や無観客試合を経て、人数制限をしながらも観客を入れ、今シーズンの全試合が終了した。尽力してくださった全ての方々に感謝します。
その間、スポーツという娯楽に分類されるものについて、サッカー選手自身がサッカーの価値や選手としての在り方を思考する姿が見受けられた。
一方、サポーターはどうか。
静寂に包まれたまま「観戦」するあのえもいわれぬ気持ち。手拍子や太鼓が解禁されたものの、声援を送れない。旗も振れない。チャントも届けられない。
もちろん様々な理由で観戦に行けない人もおり、海外リーグと比較しても現地で応援できるだけ幸せなことだとは理解している。
しかし、感情が揺れ動く場であるはずのスタジアムで、感情を表現してはいけない我々。
サポーターの声援がなくても勝つクラブにとって我々の存在はなんなのか、これまで必死に応援してきた意味はなんだったのか、そんなふうに思ってしまう虚しさ。
サポーターとしてどう在るべきなのか。それが今問われている。
ちょっと大げさすぎたが、そもそも、サポーターは「感情」ありきで存在していると思っている。このように頭で考えることが常に正しいとは思っていない。
クラブのために金も身も心も削り、一試合に一喜一憂する。そこには喜びも怒りも愛も苛立ちも全ての感情が含まれる。スタジアムは非日常的な感情表現の場だ。
これまではただそれだけだったが、感情を表現しきれない今、選手と同様に、自分の在り方について思考するサポーターが居てもいいんじゃないかなと思い、考えてみたい。
なお、これは決してサポーターはこうあるべきだという話ではなく、私自身の考えと在り方を整理するだけの話で全て個人の感想である。
どちらかといえば、みなさんは何を考えてサポーターであり続けるのか知りたい側なので、こんな考えの人もいるんだなーくらいに読んでいただければ幸いです。
サポーターとしてどう在りたいか
とはいえ、正直、サポーターであることに理由なんてない。クラブが存在する限り、共に戦うだけだ。
サポーターかどうかに明確な区別をつける必要はないと思うが、
・観客:自分の娯楽のため単に「観戦する人」
・ファン:特定のクラブが好きで「応援する人」
・サポーター:特定のクラブと「共に戦う人」
だと私の中では認識している。
私が観客だったのはずいぶん昔からだが、サポーターになったと感じるのはここ数年のこと。今は自分のできる範囲でクラブの力になりたいと思っている。
より力を注いでいるサポーターたちは本当にすごい。その存在が心の底からありがたいと思う。うちのチャントも応援も幕も格好よくて好き。
この認識から、私はクラブと共に戦うサポーターで在りたいと考えているようだ。
もちろん、人それぞれの考えがあるだろう。
共に戦うからこそ、サポーターは熱くなる。
いいプレーには湧き、相手の酷いファウルや審判の不可解な判定には怒り、万が一やる気の見えない選手がいれば鼓舞し、ゴールを決めれば狂喜乱舞。
それは、共に戦うチームの一員だと思うがゆえの行為だと思う。「自分のチームメイト」がいいプレーをしたら褒めるし、酷いファウルをされれば怒るし、やる気を出さないなら叱るし、得点すれば喜ぶのと全く同じことである。
そのサポーターの熱い思いと応援がチームに力を与えると私は信じている。私は、勝利を信じチームのために共に戦うサポーターで在りたい。
サポーターの表現は何のためか
スタジアムは、感情を揺れ動かしそれを表現できる場である。そして、最も大きな感情を得られるのが、ゴールの瞬間とその先にある勝利だ。
つまり、だれもが試合中の目的はたった一つ。
チームの勝利。それだけだろう。
どれだけ多様な人の思いが混在していたとしても、試合だけは選手・スタッフ・ファン・サポーターが「勝利」という同じ目的を共有する90分間である。
勝利のために私に何ができるのか。それは応援すること。応援することで少しでもチームの力になること。
しかし、ときに自分の感情表現が行き過ぎたり、チームのためにという目的から外れたりすることに気付く。
例えば、現状のルールでは、声を出すことは選手やチームのためになる行為ではない。
喜びの声を出したいという気持ちは私の感情でしかなく、相手のファウルに声を荒らげるのも私の感情に基づく行為でしかない。
自分の感情だけを優先した、チームのためには不要な行為だろう。
声を出すことが全て悪いわけではないが、自分の目的にはそぐわないことが今考えればわかる。実際そんなに冷静ではいられないのだが。
もちろん、私の感情は私のものだ。そして、感情は自然と湧き上がる。だが、その感情を外部にどう表現するかは自分で選べるはずだ。
これは、平常時の応援でも同じことである。
現地でしかわからない光景があるのと同じように、ピッチ内でしかわからない光景がある。
選手が抗議しないなら私も抗議する必要はない。一方で、選手が諦めそうになっても私は最後まで諦めたくない。
選手が喜べば選手以上に喜ぶし、選手が悔しければ選手以上に悔しがれるのがサポーターではないかと思う。
サポーターとしての私の表現は、選手の感情をプラスに増幅させるものであってほしい。その方がチームの力につながる。
自分の感情を表現すること自体を目的にしてはいないか、自分に問いたい。
私はクラブと共に戦うサポーターで在りたいのではないのか、チームのために表現し応援するのではないのか、と。
サポーターとして何を表現するか
綺麗事を言うつもりはない。
しかし、勝つためにどのような表現の応援が有効で、何が不要なのかを考えることは悪くないと思う。
例えば、試合中ピッチに向かってたった一言しか声を掛けられない世界があるとする。
私はきっと、チームへ応援の言葉をかけるだろう。限られた言葉を相手や審判への抗議に使うのはもったいないし、選手も嬉しくないし、勝利につながるとは思えない。
ところが今、ピッチに向かって発せられる言葉は0文字のはずだ。制限の中で何をどのように表現するのか。応援する気持ちを込めて必死に手拍子と拍手を送るのみである。
そして、たとえ無制限に声援を送れるようになっても、必要なものは変わらないと思う。
チームにとって不要な行為に使う体力や言葉があるのなら、チームの応援に充てる方がいい。
不要なものはできるだけ削ぎ落として、必要なものに全てを捧げたい。勝利のために。
スタジアムには多様な考えの人が集う。
チームのために戦いたい人、自分の感情を重視する人、仲間と応援することに意味を持つ人、勝つことが全てだという人、様々だろう。
その考えはその人のものだから誰にも口出しできない。だから私も、私の思いをここに記すのみである。
一方で、勝利という目的のためには、多くのサポーターが同じような方向性でまとまった表現の応援をすることで、より大きな力につながるのではないかと思う。
話が少し逸れるが、ルール違反をした場合の処分は厳しい。私はこんなふうに頭でっかちな人間なので、大胆にルールを破ることは出来もしないけど。
もちろん暴力行為や差別的行為などは許されない。
ただ、愛を持って力を注いでいる人がルール違反のためにスタジアムを去ることがあれば、クラブにとってもサポーターにとっても大きな存在を失うことになる。そんな悲しいことはない。
なんのためのサポーターなのか、勝利のために必要なものは何か、不要なものは何か、大切にしたいことは何か。それを考えることは、自分の判断の手助けになるかもしれない。
サポーターとしてどう表現するか
数年前、制限の中で生まれた太鼓のないチャントはすばらしく格好よかった。
今は、太鼓は鳴らせるが声を出せない。どう表現するか。
声が出せなくても、チームのために在りたいこの気持ちは変わらない。この強い気持ちを、拍手や手拍子に込めて届けるしかない。あるいは他の表現方法を考えるしかない。この文章も私の表現の一つだ。
選手はピッチ上でプレーを通じて懸命に表現してくれる。
サポーターとして私はチームのために何をどう表現し応援するのか、これからも考えていきたい。
このように、いくら理想の在り方を頭で考えても、実際には感情的になりうまくいかないことが私にはあるだろう。
しかし、理想を理想で終わらせず、チームのために力を尽くし結果で証明した人間を私たちは知っている。
サポーターとしての在り方も理想で終わらせたくない。どう在るべきか考え、できる限り追求したい。サポーターもチームのために在りたい。
最後にもう一つだけ言えば、よそのチームにどう思われても構わないが、クラブと共に在ることを選んだ我々と同じように、少なくともクラブと選手にだけは信じてもらえるサポーターで在りたい。
それが個人的な願いです。
(書くことで自分の考えを見つけていくのでまとまりがなく、全て個人の感想です。)
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