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アカデミー賞ノミネート短編ドキュメンタリー作品を小学校の先生の目線で見た。おもしろい!

「Instruments of a Beating Heart」を観て考えたこと
アカデミー賞短編ドキュメンタリー部門にノミネートされている日本映画**「Instruments of a Beating Heart」を観た。この作品は、長編映画「小学校~それは小さな社会~」を短縮したものらしい。しかし、英語のタイトルが「THE MAKING OF A JAPANESE」**であることが示す通り、単なる「小さな社会の記録」ではなく、もっと深い意味を持つ作品なのではないか。
この映画の中で描かれる小学校の光景は、日本人にとって馴染み深いものだ。教師の指導のもと、子どもたちは努力し、壁にぶつかりながらも乗り越えていく。主人公の子どもが注意され、葛藤し、それでも最後には担任を抱きしめるシーンは、まるで「教育の理想形」を見せられているようだった。私のような年配者にとっては、まるで孫を見守るような気持ちになり、涙がこぼれてしまう。

しかし、英語の題名を改めて見たとき、その感傷は一瞬で揺らいだ。「THE MAKING OF A JAPANESE」──つまり、日本人の“製造過程”。この言葉は、教育とは何かを改めて問い直させる。



私は人生の半分以上を、小学校教育に捧げてきた。その経験から言えるのは、日本の教育が単なる「学びの場」ではなく、国家の基盤となる人間を効率よく作り上げる装置として機能しているということだ。個を尊重するのではなく、「全体として動ける人間」を育てるシステム。その過程で、不良品(規律に適応できない者)をできるだけ生み出さないように、支援と指導が行われる。しかも、その指導が単なる教師の手によるものではなく、子ども同士が互いに「全体のために」動くように仕向けられる仕組みになっている
まるで、国家が望む理想的な国民を作るための工場だ。
そして、教師はその「製造工程」を担う技術者というわけか。
 


う~ん。これはうがった見方過ぎるかな。
ただし、映画に登場する先生たちは、皆、清潔感があり、ビジュアル的にも見栄えがする。何より、子どもたちに寄り添い、彼らの不安や葛藤を共有しながら困難を乗り越えさせる。
なんて素晴らしい先生方なのだろう。しかも、子どもたちの見えないところでしっかりと準備をし、子どもたちのために懸命だ。教師の鏡ですね。



 
それに引き換え、私自身をみると、まるで、国家が望む従順な労働者・市民を育てるための高度な仕組みの一部のような振る舞いに思えてしまう。そう考えたとき、私の中で長年揺るぎなかった「教育の意義」がぐらついた。


私自身、かつて学校内でドキュメンタリー映画の撮影に協力したことがある。監督の意図を自分なりに汲み、普段とは違う行動をとることで、作品のテーマを際立たせるシーンが撮れたと思っている。

教育現場を題材にした映画は、「何を見せるか」ではなく、「何を見せないか」が重要なのだと実感した。この映画でも、選び抜かれた映像の裏に、意図されたメッセージがあるかもしれない。
 
 
この映画がアカデミー賞を受賞すれば、より多くの人が観ることになる。そして、教育現場の内実について議論が巻き起こるかもしれない。そうなれば、教育者としての視点から、日本の学校が果たす役割について真剣に問い直す機会になるだろう。



この映画の監督は、今後フォーカスされていくだろう。
それに引き換え、私は何もない日常に埋もれて消えていくのだろう・・・・。