研究授業で思うことを言うのは難しい
他校での研究授業を参観した際、私が「いやな参観者」になってしまった経験があります。
その後、反省の意味を込めて手紙をしたためましたので、ここで紹介したいと思います。
しかし、ふと思うことがあります。
研究授業に対して発言するというのは一見、研究のために良いことのように思えます。しかし、実際には研究校にとって都合の良い意見であれば歓迎されますが、それ以外の意見については、できれば黙っていてほしいというのが本音でしょう。
参観者側も早く授業が終わってほしいという気持ちがありますから、そういう意味では、発言を控えて静かにしていた方が、周囲にとっても歓迎されるかもしれません。
もちろん、情報共有は大事なことです。しかし、現場の多くの人は、あまり他校の授業から具体的な情報を期待していないのが現実だと思います。実際に気になることがあれば、授業後に個人的に質問をするのが一般的です。
それでは、以下にその時の手紙を紹介いたします。
先日の研究協議ではお世話になりました。
話し合いでは、伝いたいことを上手に言えなくて、授業の協議より自分のことばかり話をしてしまいました。話している途中で気づいたのですが、そこが修正できずに、皆様には不快な思いをさせてしまったと思います。そのため、帰りの道中反省しっぱなしで、未だに引きずっているところです。
以後、この点に気をつけて話をするようにします。
さて、伝えたかったことの本質をまとめてました。読まなくてもいいので、弁明させてください。
「聞く力の育成」ということで、まず、聞く力をどう捉えるのかが重要になります。
「聞く力」とは、人が情報を理解し、他者とのコミュニケーションを深めるために重要な能力です。具体的には、以下のような要素が含まれると考えられます。
1. 能動的な聴取:
積極的に相手の話を聞くことができる能力
相手の発言に対して注意深く耳を傾けることが含まれる。
2. 理解力:
言葉の意味や背景を理解しようとする能力。
相手の言葉の奥にある意図や感情を読み取ることが含まれる。
3. 質問力:
適切な質問を通じて、情報を深める能力。
質問を通じて相手の考えを促進し、会話をより深いレベルで進めることができる。
4. フィードバック能力:
相手の発言に対して適切な反応やフィードバックを与える能力。
相手の話を理解したことを示し、意見を交換するための基盤を作る。
5. 共感力:
相手の立場や感情に対して理解し、共感する能力。
聞く力があると、相手の視点から物事を理解しようとする姿勢が現れる。
これらの要素が組み合わさることで、良好なコミュニケーションや意思疎通が可能となると考えられます。
では、今回の協議の論点はどこに絞って話し合うのか。それは「1.能動的な聴取」ということになると思います。
だから、若い先生に聞きたかったのが、これをどう授業でおこなっていくのかという点です。とても熱心な先生方なので、話者の方を向く、うなずく、姿勢を正す等をしっかり指導していくと考えておられていました。まったくその通りです。
「聞く力」で言うところの、「4.フィードバック能力」「5.共感力」をフィジカル面で展開していくということになると思います。
でも、私が伝えたかったのは、「『1.能動的な聴取』には『聞こうとする』意志の問題が重要で、この部分への関与はメンタル面から考えるほうが授業として展開しやすいのではないか」ということです。
「聞こうとする」気持ちの重要な要因は『興味関心』だと思います。これが実はやっかいで、この『興味関心』を具体化していかないと授業で使えないのではないかと思っています。
少し解説していくと、「関心」の語釈に、「その事について自分自身に直接かかわりがあるかどうかに関係なく、無視するわけにはいかないと感じ、△より深く知ろう(今後の成行きに注目しよう)とする気持ちを持つこと。〔心理学・教育学では「興味」と同義に用いることもある〕」とあります。
「興味」の方はわりとそっけない語釈で、「その物事について、おもしろいと思うこと。」とあるのです。
これらの語釈によると、例えば、「授業に関心がない」と「授業に興味がない」とではどう違うのか。
「関心がない」と言えば、「(自分には)関係がないから、より深く知ろうとは思わないし、成行きがどうなろうと知ったことではない」という意になるでしょうか。「興味がない」と言えば、「面白くないから、知りたいとも思わない」という意になる。
「知的関心」と「知的興味」とではどう違うか。前者には、関心の対象に対する情報に敏感になり、情報を収集するという継続的な態度が予想されるが、後者は、対象に対する知的好奇心が引き起こされた状態であると言えそうです。つまり、違いについては、こう考えれば整理できると思います。
精神的な面から補足すると、前者は、その関心が何らかのより大きな理由によって引き起こされるのに対して、後者は、対象そのもの魅力によって引き起こされるという違いもあるのではないでしょか。
また、「関心」と「興味」の用法の違いという問題とは別に、対象に対する二つの異なった心的状態という問題もありそうです。
そこで、この「関心」と「興味」を授業のなかでどう扱っていくのかを考えていきます。
授業内で、話者(先生でも生徒でもいいですが)に対して、話の内容に関心があるかどうかは、聞き手と話者との間に、ある程度の情報共有が必要ではないかということです。「聞かない」のではなく「聞けない」。それは、情報が共有されていないので、何をつたえているのか分からない。という点にあると思います。
つまり、「関心」を持たせるためには、授業がはじまるまでに情報の共有を図る仕掛けが必要になるということです。
この解決策として、事前に情報を入れておくための予習が挙げられます。これを家でするのに抵抗がある生徒がいるとすれば、前時で情報のための調べ学習をしてまとめておくという情報の蓄積をしておくことが必要だと思うのです。
もう一つが、「興味」を引き起こすための仕組みです。面白そうと感じさせるためには、情報共有が必須です。他にも、話の内容への関与を促すという仕掛けも考えられます。それが、質問を促すという方法です。質問をさせることで、関与せざるなくなります。つまり、興味を持つことへの心理的環境を整えることができるのです。
この二つの方法を授業でおこなうと、必然的に「聞かざる得なくなります」これを授業で展開していくのが研究授業での醍醐味ではないかと思うのです。
こう考えると、この仕掛けをするための教師の資質が問われます。つまり、単純に教師がこの予習と質問を自ら体験していくことが、授業作りへと繋がっていくと思うのです。
そして、この体験は教室環境内で伝播していきます。だから、自らすることを進めていきたかったのです。
話が長くなりました。
先日での協議では、説明の順序が逆になってしまったので、自分の話からしてしまったのです。
若い先生方が、怪訝な顔をしていたのをわかっていたのに、切り替えることができない自分を顧みて、老害でしかないと思っている現在です。
今後、協議については、話す内容等、しっかり吟味して発言いたします。
かつて、研究協議では、遠慮無く話をしていた時代がありました。だから授業に対して真剣に向き合えたと思うのです。
しかし、今では、研究授業は形式であり、授業者も参加者も面倒なものだと思いながら難なく過ぎ去ることをもとめられているのでしょうね。
だから、管理職として変えたかったですが・・・・。