カンジョウを「感じきる・味わう」と、「浸る」の違い
さて今回は、だいぶ前に公式LINEにきたメッセージなのですが、これすごくいい質問だなーと思っていて、しばらく考えていたのですが、思い出したので書きます。
ビールに例えよう
まず、
感じきる
味わう
について。
クラフトビール屋さんに行きます。
IPAか、ペールエールなのか、ピルスナーなのか、
今日の気分と体調の調子を見て、合いそうな名柄を選びます。
ビールが届きます。
最後まで、
味わって、
飲み切る、
みたいなイメージが「味わう、感じきる」です。
もっと細かく書きましょうか。
グラスを持った時にほどよく冷えたビールの肌触りを感じ
クラフトビールならではのほどよい泡加減を見つめ
ピルスナーの黄金色をきれいだなーと感じ
喉に入れた時のすっきりとした喉越しを感じ
ほどよい苦味を口の中で感じ
鼻に抜ける麦芽の香りを感じる
二口目からはすこしマイルドになった味わいを感じ
三口目からはアルコールがすこし回った時の気分と一緒に味わい
もう後半分しか残ってない、と感じ
残った半分をさらにじっくり味わいながら飲み
飲み干した時の満足感を感じ
グラスが空になったことを理解して終わる
みたいな感じです。
極端に書いてますが、ポイントとしては、明らかに自分がビールを味わって飲み切ろうと意識してその行為を行なっていることです。
意識するとは
「意識する」とは何かというと、それをしている自分を見ているもう一人の自分がいるということにほかならないのですが、つまりビールを飲んでいる自分をよく見ている自分がいる、という状態になります。
こういう「ビールを飲んでいる自分を観察すること」を、メタ認知といったりします。
メタ認知のメリットは、後から振り返った時にそれがどういう現象だったかを説明できることですね。
「あそこのお店のビールが美味しい」とは「具体的にどう美味しいのか?」ということを、メタ認知をしながら行為を味わえる人は説明することができます。
逆にデメリットは、メタ認知はその行為に対して詳しくなりすぎてしまうために、極端にやりすぎると興ざめすることです。
例えば、お笑い番組を見ている場面を想像してください。「このコンビはここで変なことを言うから面白いんだよな」などと冷静に観察しながらみていると、大爆笑できなかったりします。
一方でM1グランプリで初めてのコンビの初めてのネタに大爆笑してしまうのは、よく観察しようにも情報がなさすぎてどう見たらいいか分からない状態で予測がつかないボケやツッコミが登場するからだと思います。
感情に話を戻すと、
感情を「感じきろう」
感情を「味わおう」
となった瞬間に、その行為は意識的なものになるので、感情をメタ認知している状態になります。
自分はいま悲しいと感じているようだ
この悲しみは今まで感じたことがないくらい強い感情だ
こんなにも自然に涙が出るのはいつぶりだろう
涙を止めようとしたらとまるのだろうか
悲しいという気持ちはこういう状態のことをいうんだな
胸も苦しくなってきた
ああつらいなあ、と今自分は感じている
.etc
のように、「感情を感じているという行為」に注目をしていることになります。
これを繰り返すと、「感情を感じるという行為」がどういうものであるかを後からでも説明できる様になります。
先ほどはデメリットとして書きましたが、「感情を味わう」ことのメリットは、そうすることで感情に溺れずに冷静になれることです。
不思議な話なのですが、「感情を味わおう」と思った瞬間にその行為は意識的となりメタ認知が始まるので、感情が少し落ち着いてしまうのです。
浸るとは
では次に、「浸る」とはどういうことでしょうか。
これもビールで例えるとわかりやすいかもしれません。酒浸りという言葉があるように、ビールに浸っている人はビールを味わっているというより、酔って意識を薄れさせてその雰囲気に溶け込んでいる様な状態です。
他人を見て、あの人「浸ってるなー」って時があると思うのですが、それはその人を見ているこちらは外から観察しているので、意識的にその人をみれているからです。でも当人は意識的に浸っているわけではないので、それがわかりません。
「浸る」とはよく言えば「没入」です。その行為自体に溶け込んで無我(つまり無意識)でその行為を楽しんでいる(悲しんでいる場合も)状態です。
ぼくがブログを書いたり何か創作しているときは、その行為自体に溶け込んでいるので、ある意味ひとりゾーンに入っている様な感じなのですが、ゾーンに浸ってるのは自分なので、それを読者が読んで面白いと感じるかどうかはまた別の問題です。
かと言って、書きながら、
「この文章を書いているときおれは興奮している!」
「この文章を書いているときおれは人からどう思われるかいまちょっと気にした!」
などといちいちメタ認知していたらペンが進みません。
そういう意味で、「没入」して無我になるメリットの一つは行動スピードが上がることですね。
感情に置き換えると、感情に浸っているときはいわゆる「感情的」な状態です。「感情的」なときは良くも悪くも行動スピード(行動しないと決断するスピードも)が上がります。
ただ、後から考えてなぜその様な行動をとったのかはわかりません。
浸っている時というのはそういう状態です。
「味わおう」、「感じ切ろう」の意味
ぼくも過去のブログでよく感情を「味わおう」「感じ切ろう」と書いてきましたが、今回この様に言語化してみたことでよりその意味が理解できました。
「感情を味わおう」とはつまり、「よく感情を感じている自分を観察しよう」といっていることに等しいことになるのだと。
そして読者の皆さんのコメントや質問を読んでいてたまに感じていた違和感があったのですが、
「感じきる」
「味わう」
を
「浸る」
の意味で捉えている人がいそうだということもまた理解できました。
なので、「感情の感じ方がうまくいきません」という質問が湧くという方はもしかすると、「感情にうまく浸りきれません」ということを言っているのではないかと思いました。
結論から言うと、「浸れなくても大丈夫です、むしろ引き目くらいのスタンスで観察し、興ざめするくらいでも大丈夫です。その代わり、最後までその行為を観察しきってみてください。」
という話になるのだと思います。
「感情を感じるという行為」がどの様なものであるかがわかると、感情に溺れにくくなるので、感情の取り扱いスキルが高まっているということになります。
その上で、浸りたいときは浸ったらいいと思います。それもまた一興です。
質問していただいた方、ありがとうございました。( ^ω^ )
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