思考は言語に依存するか
哲学者ヴィトゲンシュタインは、思考や認識の枠は言語によって制限されると考えた。つまり言葉で表現することでしか、人は思考することができないということだ。はたしてそれは本当なのだろうか。
近年、わが国では「言語化」なる言葉が流行している。この言葉がもてはやされている背景には、言語にできない思考が先に存在していることを、暗に認めているようにも考えられる。
この記事では、私たちの思考は言語を超えたところで存在するのではないかという問いを投げかけてみる。
「言語化」がもてはやされる理由
近年よく聞く「言語化」というフレーズ。考えや感情を巧みな言葉で説明できる能力が評価されている。しかしなぜこれほどまでに言語化能力がもてはやされるのだろうか。
言語化が上手い人が評価される背景には、頭の中にぼんやりと抱いていた思考を、誰かが明確に表現してくれることに、ある種の爽快感がともなうからだろう。
曖昧な思考をすでに多くの人が抱えているからこそ、それに名前をつけたり包括的な説明をしてくれる人が出てくると「ああそれそれ!それが言いたかったんだ!」とスッキリして、称賛されるのだ。
これは、言語より先に思考が存在することを示唆している。思考自体は言語とは独立して存在しており、それを「言語化」する作業があるだけなのではないか?
思考と言語は別物か
「言葉にできない感情」や「何となく頭の中にはあるけど説明しにくいアイデア」というのは日頃から私たちは経験している。
マーチダ先生こと町田康の『告白』は、明治時代の田舎暮らしの青年が主人公の傑作長編小説だ。主人公は考えにふける「思弁癖」を持っているが、つたないコッテコテの河内弁しか話せず、周囲に自分の思弁を伝え、共有することができなくてフラストレーションを抱えている。
マーチダ先生はこれを獅子舞に例えている。主人公は常に獅子頭を被っていて、獅子の目を通して外の世界が見えている。本当の自分自身は獅子頭の内側にいるのに、世間からは獅子である自分しか見えない。自分と獅子の目の間には深い暗闇が広がっていて、自分の思弁がどうしてもその闇を飛び越えて外に出ていかないのだ。主人公は結局苦悩を募らせて連続殺人に手を染めてしまう。
マーチダ先生はまさに、言語によらない思考の存在を描いており、思考と説明能力は別物であるということを示唆している。
かつて少年犯罪の報道番組で「少年犯罪の加害者は自分の思いをうまく伝えられない事に葛藤している人が多い」と専門家が語っていて、『告白』の主人公そのものだと感じた。
また、音楽家や美術家が、感情やアイデアを言語に依存しない作品で表現するのも、言語によらない思考の存在を示す一例だ。鬼才、スタンリー・キューブリックは、映画を言葉で説明することはその目的に反するという立場を常に持っていた。表現したいことを言葉で伝えられるのであれば、そもそも映画なんて撮らないということだろう。
シュレーディンガーの猫
物理学者シュレーディンガーによる「シュレーディンガーの猫」の例え話は、量子力学の未確定状態を説明するためのものだ。箱の中にいる猫が、生きているのか死んでいるのかは箱を開けるまでわからないという、いわば「観測するまでは状態が確定しない」というものだ。
この例えを思考に当てはめると、思考が言語化されるまではその存在を証明するのは難しいのかもしれない。でも、言語化されなくても思考そのものは確かに存在し得る。言語はあくまでも思考の存在を他人に証明するための手段であって、思考そのものを生み出すツールではないのかもしれない。
つまりヴィトゲンシュタインの主張における「世界」とは思考の証明であって、他人と共有できる思考に限っては言語に制限される、という意味として捉える事ができる。
思考の解放とLLM
人は多くの思考を持っているが、それをうまく説明できないとき、まるで獅子頭の中に閉じ込められたような閉塞感を抱く。それはあたかもまだ全体像が見えないモザイクのタイルのようだ。しかし、言語化がそのタイルをつなぎ、全体像を解き明かす力を持っている。思考の解放を通じて、新しい発見や理解が生まれる瞬間、そこには知的快感があり、自己の深層にアクセスする手段なのだ。
これまでは、自分の思考を明確に説明できなければ、その思考は存在しないのと同じだった。しかし大規模言語モデル(LLM)の技術の進展によって、言語化のプロセス自体が補助され、思考そのものを言語化しやすい時代が訪れた。
LLMの用途は実に幅広い。プログラミングのサポートをしてもらう人もいれば、日々のレシピを提案してもらったり、メールの返信を書いてもらったり、ちょっとした事実確認のために使う人もいる。ただ話し相手として活用する人もいるだろう。
けれど、私がこの技術に感じる最大の魅力は、まだ言葉にしきれていないモヤモヤとした思考の断片をLLMに投げつけて「これを上手く説明して」と頼めば巧みな言葉でまとめてくれる点にある。ちょっとニュアンスが違ったら「ここはもっとこういう感じで」と微調整を繰り返せば、やがて自分の思考が解放さる。
少なくとも書き言葉においては、LLMを使うことで言語化に割く労力が大幅に減り、言語化能力の重要性自体が薄れていくだろう。そして人はより多くのエネルギーを本質的な思考そのものに向けられるようになり、今後の知的活動の大きな転換点を示唆しているように思える。
つまり、これまでのように「考えるだけでなく、言葉にしなければ意味がない」とされていた時代から、「考えること自体が評価され、言語化は補助的な役割」にシフトする可能性がある。
そして、従来は言語化に苦労していた人々が持つユニークな思考やアイデアが、より多く表に出ることにもなる。つまり言語化能力よりも、思考の深さや独自性が評価される社会が来る可能性がある。
これが私にとってLLMの最大の価値であり、知的活動をさらに深め、より多くの人が参加できるための思考の解放と言えるだろう。
結論: 思考は言語に縛られない
ヴィトゲンシュタインの「言語の限界は世界の限界」という言葉は、一見すると的を射たように思える。しかし、私たちの思考は言語の枠を超えて存在している。言語はその思考を証明するための手段であって、思考そのものを生み出すものではない。むしろ、言語化されていないアイデアが私たちの頭の中に渦巻いているからこそ、それを形にする瞬間に知的快感が生まれるのだ。
そして、LLMの登場によって、その言語化のプロセスが劇的に簡素化された。私たちはもはや「言語化の壁」に悩まされることなく、思考そのものに集中できる時代を迎えつつある。言葉がなくとも思考は自由で、言葉によってその思考を外の世界に解き放つことができる。この思考の解放こそが、次なる知的進化の一歩になるかもしれない。