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2024年9月18日の日記
週末にマインドフルネスの本を読んで少しかぶれてしまっている。朝から「わたしは今ご飯を食べている、もぐもぐ」夜は「わたしは家の中を歩く、足の裏で床を感じる」「わたしは眠る、すやすや」みたいに、いちいちマインドフルになっては夫に「どう?いまのわたしってかなりマインドフルネスでしょう(意味不明)。スマホのスクリーンタイムも今日は30分だよ。スマホを見ないから時間があるよ、首にスリスリしちゃお」などとたいそう騒がしく絡んでいく。
スマホのニュースなどの代わりに本をもっと読もうと思って、吉本ばななの「デッドエンドの思い出」をバスで読む。カレーの話なんか、何回読んだか分からないくらいなのに、また涙が出る。吉本ばななの小説を読むと、忘れていたいろんな感情のドアが一気にシュバババっと開くような感じがする。混ざり切ってくすんだ絵の具で覆われたパレットを水で綺麗に洗って、そこに新しくてパキッとした色の絵の具たちをまた絞り出すみたい。心がさあっと洗われて、生まれたての子どもみたいな感性で世界を受け入れることができそうな気がしてくる。
それにしても、日記を書き続け、自分の考えや感じ方にフォーカスしていると、感情への動体視力がよくなっていくのが分かる。さっき書いた「デッドエンドの思い出を読んで心の扉が一度にいくつも開く感じ」は、日記のために比喩を考えているわけじゃなくて、読んだあとにフッとそういう感覚が浮かんでくるのだ。共感覚といって、「東」という文字を見ると自然とオレンジ色の印象を覚える、サックスの音を聴くと群青色でところどころ棘のある帯状の形のイメージが思い浮かぶ、1年の月は1月から12月までが時計回りに楕円状に並んでいるように感じる(引用元
https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/H_00038.html)ような感覚を持つ人がいるらしい。私のこの、感情が動くと心の中に文字としての風景が通り過ぎる、というのも、共感覚のたぐいなのかしら。最近Twitterで、国語が得意だった人は収入が低い傾向にあるみたいな投稿を見て、確かにそうかもしれないとしょんぼりしていたところだけれど、ちょっと希望が湧いてきた。運動神経がいい人がスポーツをするとたちまち上達するように、私にもそういうものがあればなあと思って生きてきた。少しでも芽が出そうなものは、恥ずかしがらずに練習して伸ばしてあげたい。あっ、そういえば、ドラえもんと篠原涼子のモノマネも得意かも。