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言葉の過激さと影響力の大きさとは別物だということ

知人が少し過激な言葉でSNSをするようになりました。

政治や生き方、価値観について自分の意見や主張があることは素敵なことだと私は思います。けれども、インパクトのある表現と、影響力があることとは違うと思うのです。だから周囲を傷つけうる言葉で過激な発言を繰り返すその人に、私は少し悲しくなりました。

確かに過激な表現を使うことでひと目を引くことができるかもしれません。Twitterでも純粋に共感されているもの以外に、誤解を生んで炎上っぽくなって広がるのはよくあることです。他にも、露骨な性的な表現やコンプレックスの誇張表現などが拡散されることもあります。

恋人よりセフレとか、合コンよりティンダーとか。あるいは体重何キロのデブが〇〇してみたとか、すっぴんブスがここまで変われるとか。

ブスとかデブとかセックスとか、暴力的なほどのパンチ力が単語に宿っています。それは人間の想像力を殴って麻痺させて、注意を引くのです。でも、発信者はそれで悦に入ってはいけないと、自戒を込めて私は思います。

私だって創作するものとして、読まれたい、見られたいとは常に思っています。だから表現を選ぶ時にインパクトを意識しないわけではありません。でもそれによって殴られている人がいるのがわかってしまうし、そういう強い表現を選ぶことで自分のことも削っている気がするんです。

やさしさ、あたたかさの中に、強い意志を込めた言葉を知っています。私が本当に尊敬するのは、いつだって強い言葉で関心を引こうとする人ではなく、冷静さとやさしさを兼ね備えた謙虚な言葉の持ち主でした。

一見インパクトのある言葉に思えなくても、不思議と覚えてしまう、興味を持ってしまう言葉があります。そんな言葉を使えるようになりたいと、最近より強く思うようになりました。テクニックとしての言葉は持っていても、使い所を見極められるようになりたいんです。

あるいは、受け取り手の知性も問われます。脳死でも飛びつけるような安易な表現に飛びつくのか、踊らされてしまうのかについては私も意識しないといけないことです。

情報化社会でわかりやすく加工された物が増えて、わかりにくいものをわざわざ読み取ろうとしなくなっているところがあるのを自覚しています。

文章なんて特にそう。わかりにくいものを必死に理解して自分を深めようとする行為が苦手になってしまいました。みんなが共感しているものがよく見えるし、それが発信者の力尽くの言葉を助長させているかもしれません。

謙虚な書き手、そして知性ある読み手になりたいものです。每日更新者のひとりごとでした。



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