見出し画像

鏡の中には、嬉しそうな私の知らない女の子がいた


初めて母とブラジャーというものを買いに行った時、中学生だった私はひどく気後れしたのを覚えています。

「ママ、こんなところは嫌だ。早く出よう。」

お店に一歩足を踏み入れるやいなや、そう言って私は母の手をとり、後ずさりしました。

当時の私には、これでもか!と主張された大きな柄やレース、そもそも「女性の空間」というものが未知の恐ろしい場所に感じられたんです。

それはいかにも若者向けの下着屋さんではなく、いきなり百貨店に連れて行った母のせいだったと思います。高級下着をつける想像なんて全くできていない私は、もっと初心者向けのチープであどけない可愛さを求めていました。母は素知らぬ顔をして自分が買うような下着屋さんに連れて行って、「あら、まゆちゃんはこういうのに興味ないのかしら」なんて言ってのける人なのです。

女子校にいてむしろ女子を感じなくなっていた私には、女性の性の頂点とも言えるこの環境は苦しいものでした。お化粧を全くしない人が、デパートの化粧品売り場で香水の匂いに包まれているのと同じような感覚ではないでしょうか。

きっと自分の未知なる「女性」の部分に対しての怖さもありました。小学校高学年で、パットなど入っていないビキニのような布切れを初めてつけた時は、確かにときめきました。もともとプリンセスに憧れていた小学生の私は、彼女のドレスにも似ているその下着が「ちょっとだけお姉さん」を味わうのにぴったりだったんです。

でも本物の威力と言ったら!お遊びではないのだと突きつけてくる大人のそれは、中学生の私をびびらせるのに効果抜群でした。



昔から、母に与えられたものを着てきました。

私は自分の外見について、一定の無関心と多大な諦めを持っていました。自分の好きなものが似合うかとか、自分がどう見られるかに対してひどく悲観的だったんです。だから、こだわるということを極度に恐れていたのだと思います。

私とは対象的に、父も母もおしゃれにはこだわりのある人でした。父は原色のシャツとサングラスとデニムにブーツを合わせるのが得意だったし、母はブランド物でも3000円の服でも、シンプルなものと色柄を合わせてゴージャスに見せられる人でした。そんな父は私にもっと色物を着せようとしたし、母はフランスだかイタリア産だかの花柄で埋め尽くされた子供服を勧めました。

当時の私は、自分の好きなものを着たい!というような意思も、自分はこれが似合うはず!という自信も持っていませんでした。ただ大人しく、なるべくキャラに合わないことはせず、外見が意思と反して自己主張をすることを避けようとしていました。それでも少しの憧れが、その時に流行っていたキャラクター付きのパーカーを着させていました。

生まれてこのかた、自分が平均並みに痩せていると思ったことは一度もありません。小学生の時ですら、太っている自分には服がそもそも似合わないと思って生きていたところがありました。



今でも、体型へのコンプレックスは続いています。

それでも、23歳の私が服よりも選ぶのが好きなものがあるんです。それがランジェリーです。

高校生になると、自分が人よりもふくよかな分、きちんとブラジャーを着けた胸がきれいに見えることに気づきました。試着室の鏡の前で背中や太もものお肉にがっかりすることはあるけれど、自分を魅力的に見せてくれるものに出会えたと思った瞬間でした。

白、黒、ピンク、水色、黄色、青、赤。

一番肌に近い下着だけは、身につける色を我慢することもありませんでした。

服を買うときにはどうしても無難な色を選びがちだった私も、誰に見せるでもない下着は自分の好みだけで選んでよかったのです。その自由と、自分だけが知っている秘密の自信のような何かは、私を一歩ずつ「なりたい姿」へと近づけてくれたのかもしれません。



留学先のニュージーランドでは、海外でブラジャーを買うと日本より1カップは下がることを学びました。そもそもていねいなパットが入っているものは少なく、パットなど無いか、2カップ上げるドレス用としか思えないブラジャーが2大巨頭でした。日本の細やかな気遣いに溢れた機能と繊細な装飾があのときほど恋しくなったことはありません。


イタリア旅行では、自分へのお土産にありったけの下着を買いました。フィレンツェの美しい町並みに見とれながら、私が一番そそられたのが地元のランジェリーショップでした。日本ではいかにも気合いの入った装飾が細かく高価なTバックも、彼女らにしてみれば普段使いの消耗品のようです。日本よりサイズの展開が大きめということもあり、喜び勇んで手にした戦利品は、その安さゆえに洗濯も気にせずできるすぐれものでした。


自分への誕生日プレゼントに、好きなだけお気に入りの下着を買った年もありました。繊細なレースが好きで、それを身につけることは自分を尊いものにしてくれるかのような感覚がありました。それは魔法のようになりたい体型には変えてくれなかったけれど、かかっていないはずの魔法から解けきらないような、わくわくとした気分を私にくれました。



これからどんな風に体型が変わっても、私はそのすべてを愛することはできないんだと思います。どんなに自分のことを好きでいても、嫌いな部分がいつも鏡を通して見えてしまう。女性にとっての老いは、それにきっと拍車を掛けていくものなのだろうと寂しさも覚えます。

でも、自分のための世界を守れるランジェリーだけは、ありたい姿を叶えるためにいつもそばにいてくれる気がするんです。本当は裸の自分を愛せるようになったらいいけれど、それは私には難しいことだから。自分を強くする武器は、背筋まで伸ばしてくれるんです。

私が中学生のあの日に下着屋さんを恐れた本当の理由は、自信のなさだけではなかったのかもしれません。各年代の女性にそれぞれの自信を与えてくれるお守りのパワーに、ただただ圧倒されたのかもしれません。

今なら、自分の欲しい物が選べます。もう自分のことは自分で決められます。それはきっと私が、自分らしくいることの楽しさを知ったからわかったことでした。


痩せてもない、むだなもののいっぱいついたこの体でも、私は自分の下着姿がちょっと好きかもしれない。


そう思えることの嬉しさが、今までのコンプレックスを少しだけ溶かしてくれました。

夏にブラトップに逃げてごめんなさい。

これからも私のお守りでいてね。



ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。 スキやシェアやサポートが続ける励みになっています。もしサポートいただけたら、自分へのご褒美で甘いものか本を買います。