「頑張って」より「頑張りすぎなくていいんだよ」がやさしく聞こえるけど
私は強くなりたい。
強くなるために努力したい。
そういうことを言うと、時に弱さを受け容れてほしいたくさんの人を怖がらせてしまいます。
私がそれなりにストイックだからとかもともと体力があるからとか、そういう理由を人は私に塗りたくります。言い訳を聞きたいわけじゃない私の主張は、誰かの脅威になるのでしょう。
頑張りたくても頑張れない人もいるから。
逃げることにだって勇気がいるから。
弱さを認めてあげられることこそ本当の優しさだから。
そんなこと分かっているよと、私の攻撃性はまた叫びだしそうになるのです。
頑張りすぎなくていいんだよ。そう言ってもらって途端に肩の力が抜ける時は確かにあります。人に甘えたかったのだと、涙が出そうになる夜もあります。
でも私にとって、それは自分なりに闘った後だから得られるご褒美なんです。
高校時代の顧問が、頑張りすぎなくていいんだよ、なんていう人だったら私は努力することができなかったと思います。もうあれほど苦しいことはそうないと、その後の自分を奮い立たせてくれる原点を作ることはできなかったでしょう。
頑張って。頑張り切る義務がある。私なら、頑張りきれる。
そういう期待は、今ではタブーとされるものかもしれません。
そうやって多くの人が追い込まれ、誰かに相談することもできずに沈んでいってしまう呪いかもしれません。
でも、最初っから誰からも期待されなかったら私はきっとやりきれません。誰かの責任をなにか起こったときには押し付け合う世の中は、どんどん孤独を深めていくように見えます。
お前は大丈夫だ。お前ならできる。
その言葉の裏でどれだけその人が自分を見てくれているか、愛情を注いでくれているか。その人も一緒に苦しさを乗り越え、私を支えようとしてくれているか。そういった想いを背中に感じたからこそ、私は「頑張って」でがんばってこれたのです。
思えば私の人生は、一緒に倒れたり起き上がったりして、その言葉に責任を持ってくれる人が併走してくれていました。努力も失敗も成功も、自己責任だと押し付けてこない恵まれた環境で生きてこれました。
自分の弱さを受け入れるからこそ、前にすすめる時があると思います。自分がこんなに脆い人間だとは思わなかったと、枕のまま沈み込んでいってしまいそうになったこともあります。突然涙が溢れたり、誰とも話したくなくなったり。
人に期待することは罪なのだろうかと、そんな自分の弱さの前に挫けそうになるのです。
でも、どうせなら私は「頑張って」を人に言えるような生き方をしたい。
不器用でも生きている姿が、人に勇気を与えられるものならいいのにと思います。もしくは誰かに期待をかけて、壊すことなく一緒に走れるような人でありたい。頑張らなくてもいいんだよと当たり障りなく距離を取ることはしたくない。一緒に走れるくらい大切な人たちを周りにおいて生きていきたいのです。
時に肩の力を抜いたら、次の瞬間には走り出していたい私。
辛いけれどがんばるわけじゃありません。頑張っていることが幸せだからそうありたいだけなんです。まずは人に押し付けずに自分がそう生きること。
優しさってやさしく聞こえることだけじゃない。
私はわたしが正しいと思ったことを、自分で証明して生きていくしかないのでしょう。