それって誰が決めたの?
周りの人のほとんどに理解されない私の特性がある。
世間の価値観と、私の考え方とが合わないことだ。
前に書いた「日本では私は生きられない」的なのに似てるかもしれない。
とある人と話していて気づいた。(らしいけど誰だか覚えてない笑。数日前に書いた下書きに書いてあった笑)
①当たり前を疑う
例えば私にとってダウン症の兄は「かわいそうな子」ではなかった。ぷっくり太っていたし:ご飯を十分に与えられていたし、家族に愛されていた。
でも世間の人は「かわいそう」という。言わないけど、そういう前提がある。じゃなきゃ24時間テレビは成り立たない。
私は幸せの定義はないけれど、不幸の定義は一つだけあると思っていて、「親に愛されない子ども」だと思っている。「子ども」というのは自分で環境だのいろんな要素を覆せないからだ。そこに彼は当てはまらない。
幼い私には、「なぜ」という疑問が残る。あなたたち(世間)は、なぜ彼(ダウン症の兄)をかわいそうだと思うのか。
その背景には、きっと色々ある。喋れないし、読み書きが出来ない、、、今でも私からはこれしか出てこない(笑)あとはなんなんだろう。
周りの人は、ある年齢になれば「このくらい」読み書きができて当たり前という、何か基準があるのだ。発達障害を診断する精神科医でも、何でもない人でも。
けれどダウン症の兄とコミュニケーションをとっていた私からすると、喋れないけど意思疎通は出来るよ?と思うので、みんなが思うほど、彼が不自由には見えなかった。いまも見えない。
とくに、大学の時に漁った論文で出てきたのだけど、障がい児と下の子とは、より親密になりやすい、という項目?があった。大規模調査によるものではなかったし、特別そういった傾向に負の相関も正の相関もなかったと思うのだが(←だいぶあいまい笑)、とある本で、養護学校の先生から見た障がい児は、「下のこと仲が良いことが多い」と言っていた(書いてあった)。その養護学校の先生の感覚だし、サンプル数いくつか知らんけど。でも、もしかして私はこのタイプの「下の子」なのかも?と思った。
今では大人になり、長男との関係と同じく関係は薄くなったけど、ダウン症の兄とのコミュニケーションで特別困ったことはない。彼は、「Yes」「No」も言えないけれど。コミュニケーションは非言語的なものが9割というのは、たぶんこういうことだと思う。とても説明が下手(笑)兄妹だからじゃないの?というツッコミが入りそうだけど、養護学校の先生は、なかなかにコミュニケーションを彼らとうまくとるし、クラスのみんなのキャラクターを正しく言い当てる。
彼とのコミュニケーションに困っていない私には、ますます「なぜ」世間が彼をかわいそうという前提で見るのか分からなかった。
この経験から「当たり前を疑う」ことは私の日常にあった。
でも世間は違う。
当たり前を疑って欲しかった。「自分たちはなぜ、この人をかわいそうだと思うのか」
多くの人たちが抱く価値観は、「親から受け継いだもの」なのか「世間が無言で押し付けたものなのか」「本来の自分の感じ方なのか」に大別されると思うのだけど、そこをもっと、大人たちに考えてほしかった。
いまもそう。だんだん時代が自由になって、考える人が増えたとは思うのだけど、自分の価値観が「どういう経験によって」形作られたのか、くらい、大人ならきちんと説明出来てほしい。そのぐらい「自分と向き合ってきた」歴史があるはずである。まともな大人なら、ね。
だけど、何かあった時に「自分が間違ってるんじゃないか」と考えられる力は、能力であり、いきすぎると自分を責めることにもつながるので難しい。
②他人のも含め、悲しみに弱い
これはもう、恐らく生まれ持ったもの。中学生ぐらいに気づいた。児童虐待のニュースを見て、号泣してしまうし、その類のニュースを見て朝から泣いて学校に行くのがしんどくて、ニュースを見るのをやめた。
そして世間からさらに置いて行かれた、、、気がする。
世の中はこんなに殺人事件であふれているというのに、なぜ自分だけが「何も起きない」という感覚で学校に行けるのか。おびえながら登校していたわけじゃないけど、そんな疑問は持持った。
(いまでは、それが「基本的安全感」みたいなものであると分かる)
世の中の悲しさについていけなかった。
中学校では幸いひどいイジメはなかったので、割と平和に過ごせた。他の学年ではあったみたいだし、他のクラスでは軽いものは(本人にとっては軽くなかったかもしれないので、この表現は適切でないかも)あったみたいだけど、幸い「目にしないで」済んだ。
小学校の時は、「いじめられそうな子」がいたけど、私がその子と一緒にいればイジメにまで発展することはなかった。私が強めな子だったわけじゃなく、「その子がもし一人ぼっちになれば」イジメに容易に発展したと思う。
もしかしたら、その子からしたらもう、イジメだったのかもしれない。私はその子に本当にたくさん感謝されたし、「私の一番の友達」と言ってくれたのを覚えている。
でも、たぶん私は私自身が傷つかないために、「いじめを発生させなかった」ような気もする。本当に、その子には小説の面白さ、漫画の面白さを教えてもらったし、別に「ボランティア」的にその子と「友達になってあげた」感がないから。
でも、もしかしたら、他の子からしたら「あんまり友達のいない子」と仲良くする私は勇者だったのかもしれない。
この辺の感覚も多分、多くの人と違う。
なんか、大多数が言ってることが正しいのか;その子について言われていた噂とかが正しいのか、なぜ自分で確かめないで、その子を一人にするのか!
みたいな怒りもあったと思う。実は①とつながってるという。書きながら気づいた(笑)
たしかめてよ!といつも思う。
別に「大衆が間違ってることは分かったうえで、私は長いものに巻かれる主義なのよ」というのであれば、問題ない、というか、私は納得する。でも、何もたしかめずに、なんとなくで「マジョリティ」を作らないでほしい。その思いが生まれたのは、多分私が「ダウン症の兄」の妹というマイノリティな位置づけをされてきたから。いや、自分でしてきたかもしれないのだけど。