非人道的シュート
小2の息子がフットサルを習っている。毎週主夫のぼくが近隣の体育館まで送っていくのだが、終わった後に保護者が参加して親子フットサルをすることもある。そのクラブにはママさんクラスもあるので参加者が多い場合は子供を交えず、大人だけでゲームをすることも多い。
運動といってたまのセックスぐらいしかしないぼくが参加すると、目下47歳のため体力の衰えを実感することもしばしばだ。フットサルはなかなかの運動量、瞬発力が要求されるスポーツで、脳が反応してるのに体が一瞬遅れるというシーンが多々ある。いわゆる「体がついてこない」というのはこれかと初めて知る。
平日の夕方開催なので基本的にママさんの参加が多い。男性はそこまでガチでプレイすることはなく、ある程度、力をセーブしてやっている感じがある。体育館だからスライディングもできないし、転ぶと摩擦抵抗が半端ないので軽く火傷したようになるのが痛い。普通のサッカーのように激しい当たりは少なく、どちらかというとドリブルでの突破よりはバスケのようにパスワークと隅を突くシュートで勝つというスポーツなのだと思う。
ぼくは一回り年下の保護者を相手にして手加減するほどの余裕がないので、割とガチでプレイしている。こないだもゴール前でパスを受け、ボレーで思い切りシュートをしてやった。
その後で家族ぐるみで付き合いのあるイタルくんと飲みながら話していた時のこと。
「イタルくんのプレイは軽やかだよね。ボールタッチもすごく繊細でさ。シュートも浮き球とか多いし」
「ぼくっすか?だってコートが狭いし、けっこう至近距離からシュート打つことも多いじゃないですか?」
「うんうん。」
「あの距離だと、人として、フルスイングのシュートとかって打てなくないですか?」
「うっ・・・」
”人として”の部分がボディーブローのようにぼくの息を止めた。
ぼくは何せ何の配慮もなく普通にシュートを打っている人非人である。しかも小中とサッカーチームに入っていたのでアラフィフの中年男とは言ってもそれなりの威力はある。
もちろん女性がキーパーの時や極端に近い場合はインステップで振り抜くようなシュートは打たないように無意識にしているはずだが、もともと規範意識の薄い人間だ。なんだか自分の無遠慮なプレースタイルが暗にたしなめられているような気がした。いや、たしなめられているのはぼくのプレーではなく、傍若無人な生き方そのもののような気がしてきた。人対人のことだからやはり人間性が出る。しかも勝負事となれば自意識の強さが如実に出てしまうのがぼくのような我の強い人間の常だ。
その日の晩、夢を見た。
ゴール前でノーマークの状態で絶好のパスを受けた。2mほどの距離で構えているキーパーに向けてシュート体勢に入ったぼくの脳裏に聞こえてきたのはイタルくんのセリフだった。
"人として、全力のシュートって撃てなくないですか?"
いや、なんとしてもやっている限りは1点でも多く点をとってスカッとしたいんだ。
ぼくはイタルくんの声をはねのけるように足を天高く振り上げる。体育館の天井と平行になるぼくの足裏。
再び頭に響くセリフ。
"人としてできなくないですか?”
もう足を振り上げてしまっているのだ。逆にここからボールに当てないとか、力加減をしてインサイドで軽くタッチするぐらいのシュートなど打てない。それだけはダメ、絶対!
"できなくないですか?”
でも、シュートを決めたい。
”人として?”
スカッとしたい。
”できなくないですか?”
いや、できるはずだ。そうやって生きてきたんだ。
”人として”
生き方は人の数だけあるはずだ。
”人として”
人じゃなくてもいいんだ。人の皮を被ったケダモノと呼ばれてもいい。
スポーツには勝ち負けがある。と同時にルールもあればマナーも求められる。それは重々承知している。けれど日常生活のタガを一定のルールを守る限りにおいて逸脱できるところにスポーツの良さがあるのではないか。
しかし、常識や前例やモラルや同調意識でガッチガチに絡め取られて暮らしている日本人にとってはスポーツの最中でさえ、他人からどう思われるかという足かせを外すことはできないのかもしれない。
だいたいマスクの着用率と陽性者の増減に目立った相関関係がないことが明白であるにも関わらず、ほぼ全国民がいまだにマスクを外さないお国柄なのである。
ぼくはそんな同調圧力と忖度を練り固めた人形たちが暮らしているようなこの国で、だからこそママさんキーパー相手に渾身のタイガーショットを打ちたくなった。常識も外聞も世間体も何もかも糞食らえだ。
喰らえ、これがおれのタイガーショットだ!!!!
というところで目が覚めた。
振り抜こうとしていた足元で息子がスースー寝息を立てている。
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