4_1 _言葉が違うと見方も違う
「化学屋から見た社会」シリーズ-1
【言葉が違うと見方も違う】
以前、”気”とは何かを問う記事を書きました。その中で少しだけ翻訳について触れ、言語が違うことでそのまま翻訳することが困難であることを説明しました。今回はその部分だけを切り出して説明します。最初に断った通り、私は人文科学・社会科学に関してはど素人です。あくまで、化学屋が横からツッコミを入れているという立ち位置で書いていきます。
今回に限ったことではありませんが、英和辞典・和英辞典としては基本的に英辞郎( https://eow.alc.co.jp/ )を使っています。
1.日本語を英語に翻訳するとき
多くの方々が日本語を英語に翻訳するときには辞典を使うでしょう。そして、苦手な方々は「英単語A=日本語甲」と言った所謂”直訳”を試みるでしょう。それが良くない翻訳であることは以前説明した通りです。言語或いは文化によって特定の単語・文章が表現する範囲は微妙にずれていることが多いからです。そうでなければ自動翻訳は西暦2000年辺りで出来上がっているはずです。
それでは、例を挙げて言語が違うことで見える範囲が違い、それによって捉え方も変わってきた言葉を説明していきます。
1-1.「試合」
日本語の「試合」は日本の武術で使われていた単語ですので恐らく室町から戦国時代には出来上がっていたでしょう。中学高校で格技の授業があった方々は教わったと思いますが、素振りなどの形通りの動作の練習から始まり、続いて相手に予定通りの動きをしてもらってそれに対応して動く約束組手、ある程度自由に技を掛け合う乱取りと来て最後に実戦を想定した試合と言う流れがありました。つまり、「試合」は同じ道場に通う者同士の力試しでした。ですから現在でいうところの「テスト」や「試験」が近いはずです。自分が思い通りに動けたか、技が完成しているかを試すので、極端な話相手に勝ってもそれらができていなければ意味がありません。師匠が見てくれてはいますが、判定者は自分です。現在の「自分に勝つ」はここから来たのかなとは思います。
目的があくまで試験であり、同じ道場の仲間同士とのこともあって無暗に怪我をさせるわけにはいきません。例え平和になった江戸時代であっても明日は捕物があるかも知れませんし、賊の討ち入りがあるかも知れません。お互いの完成のためなので安全のための作法に厳しくなります。早い話が礼儀作法や道場の掃除などです。それらがなっていなかったら安全の保障はないので最悪出禁にされます。
どうでしょう。実際できているかは疑わしいですが、現代の体育の授業や部活で言われていることに近いのではないでしょうか。では英訳した場合はどうなるか考えてみましょう。
「試合」を英語に翻訳する場合には幾つか候補が挙げられます。すべて扱うと大変なのでそのうちの一部を見ていきます。割と日本でも馴染みのある「fight」「game」「match」「play」を見てみましょう。
「fight」の場合は「試合」以外の意味が軒並み戦闘行為を指しています。本来の「試合」から大きくかけ離れています。実際英語圏でも一般的な運動競技では使わないようです。
「game」の場合はスラングを除きルールに従った力比べを意味しているようです。こちらは近いようですが、他者との比較である以上幾分「試合」から離れています。
「match」の場合は対等な相手と向かい合う意味があるようです。「お見合い」を「マッチング」と言うのと同じですね。これも見た目が似てはいますが、やっていることが違います。
「play」の場合は芝居や遊びなどかなり幅が広くなかなか掴み難いものがあります。こじつけレベルで役割を請け負って動くことでしょうか。球技では役割を負うのが普通ですが格技では考えられません。
以上、従来の「試合」とは大きくかけ離れたものだと分かります。「試合」を前述のように翻訳するのは間違いでしょう。むしろ「test」「examination」「trial」のほうが近いと思います。逆に明治以降に日本に輸入された運動競技の「試合」に当てている単語を「試合」と翻訳するのは間違っていると言えるのではないでしょうか。
1-2.「風邪」
続いて普段何気なく使っている「風邪(かぜ)」を考えてみましょう。
従来の「風邪(かぜ)」は古代中国から日本に伝わった「風邪(ふうじゃ)」からきています。ですから、元々日本語(古典を含む)ではなく、古代中国語(漢文)です。「ふうじゃ」とすると馴染みがなくなるかも知れませんが、本来漢方及び古典的な按摩・鍼灸(以降「あはき」と略します。)ではそう呼びます。
「風邪(ふうじゃ)」は現在の「風邪(かぜ)」とは似ているようで違うものです。「風邪(ふうじゃ)」は大雑把に言えば、急激な気温の変化などで体調が悪くなることを指していて、おもな症状は肩から上の痛みです。また、次から次へと症状が追加されたり悪くなったりすることから「風邪(ふうじゃ)は百病の長」と言われています。昔から言われている「風邪は万病のもと」の元々の表現(本来は漢文)です。現代の「風邪(かぜ)」と違い「鼻に来る」とか「腹に来る」とかはありません。説明が長くなるので省きますが、それらは「風邪(ふうじゃ)」に後からついてくるおまけで、別の名前がついています。
以上、現代の「風邪(かぜ)」とは微妙に違うことが分かると思います。また、現代医学の診断名に「風邪(かぜ)」がないのも分かると思います。異なる理論体系である漢方・あはきで使われていた言葉なので使うわけにはいかないからです。ですから、ここら辺をしっかり分かっている医師は無暗に「風邪(かぜ)」と言う表現を使いません。ちょっと厳しめの医師(漢方を専門とする医師は除く)は「ない」と瞬時に叩き切りますが、現代医学では本当のことなので悪く思わないでください。
大昔は漢文の世界(漢籍)も身近だったので調べる人は調べて知っていたのでしょうけれど、文明開化以降日本人の常識が変わり、漢文はすっかり外国語になってしまったのでこんなことになったのだろうと思います。
2.言葉が違うとどうなるか
ここまで、翻訳が違うことを説明してきました。ではそれで何が起こっているかを書いていきます。
「試合」で考えてみましょう。日本の「試合」に関しては競技そのもの以外に重点がおかれることが非常に目につくのではないでしょうか。所謂精神論がやたらと飛び出します。当然対戦相手への思いやりや競技に協力してくれる方々への感謝などは非常に良いことなのですが、悪い方向も頻発しています。虐待と変わらない根性論は有名でしょう。ニュースになるのはまだましで、「〇〇(競技名)をしているから大丈夫」と組織内外で隠蔽と油断が見られました。最近はSNSで動画が流出してばれるようになりましたが、昔は止める方法がありませんでした。(特定の競技名を出して批判したいところですが、本稿の趣旨から外れるのでここまでとします。)工業でもそうですが、精神論は形骸化し易いので昭和名物の精神論ゴリ押しの結果と言えるでしょう。
では精神論なしだとどうなるかですが、フェアプレー賞なるものができたのはなぜかを考えると分かります。前述の通り、「試合」に当たる英語には相手とぶつかって勝つ意味のみが入っているのでルールで取り締まらなければなりません。とは言え、審判もすべてが見えているわけでもないので勢い余ったか、わざとなのかの判別がつきません。ならばルールで取り締まる以外で釣らなければなりません。そうやって後からできた言葉が「フェアプレー」で、それに当たる日本語訳がありません。日本には元から相手への思いやりが「試合」の概念に含まれていたので言語化がされれていなかったわけです。
ここで気を付けていただきたいのですが、本稿ではどちらが良いかを判定することはしません。ただ、起こること・考えられることを列挙するだけです。
続いて「風邪」の場合です。現在では「たかが風邪」と割と軽く見ることが多くなっています。当然現代医学の発達のおかげですが、それと同時に本来の病気に対する心構えもなくなってきました。
本来の「風邪(ふうじゃ)」は陰陽理論の中で出てきたものです。陰陽理論では絶え間なく続く変化の前兆を捉えて対応すべしと説明されています。「風邪(ふうじゃ)」に関しても気温や湿気などの変化に備え病気に罹らないようにすべしと書かれています。罹ってから薬を出すのは下手糞のすることとされています。「たかが~」は頭が悪いヒトの考え方と言えるでしょう。
今でこそ予防医学が盛んになっていますが、バブル崩壊前後に大きく取り上げられて市民権を得るようになったと記憶しています。とは言え、covid-19で分かりましたが、言うほど一般人に予防医学の考え方が行き渡ってはいなかったと思います。「罹る前に備えよ」と言う考え方は長い間外国語(漢文)であったと言えるでしょう。
再度注意を促しますが、どちらが良いとかそういう話はしません。言葉の捉え方が変わって考え方が変わったことを書き連ねているだけです。
3.他でも起こっていることではないのか?
ここまで割と気が付いている方は気が付いているような話題でした。また、多少違っても問題ないと思える(個人的には悪いことだと思いますが)ことでした。しかし、これから先こんな感じで大丈夫だろうかと言うとそうは思えません。
ここまでは外国語を日本語に翻訳した後の微妙な肌感覚の違いによる噛み合わなさを書いてきましたが、今後は日本を海外に説明する際の微妙な勘違いを経験することになるとみています。なぜなら、現在は海外に自国の文化や状況を発信することが増えているからです。
そんなことは明治初期にもあっただろうと歴史を勉強した方はおっしゃるかも知れません。確かに外国人宣教師などが日本の様子を日記などに書いて彼らの母国に報告しました。しかし、あの頃はまだ国同士の交流で済みました。個人レベルであっても年に数件とか上流階級のみとかその程度でした。現在は異国に住んだり取引したり遊びに行ったりと一般人レベルの交流がそこら辺に転がっています。そんな中で何処かのよくも知らない他人が勝手な解釈でテキトーな翻訳或いは言語にすらなっていない物事を言語化して大丈夫なのでしょうか。独自の文化を持っていると語るなら身近な常識を自ら自国の言葉で言語化するのが順序と言うものではないでしょうか。自分たちの常識とは何なのかを考え直す、即ち本来の意味での哲学が必要になってきたと考えています。
今後何がどう解釈され翻訳されどんな方向に持っていかれるか分かりませんが、例として出したもののようにどうかとんでもない方向に飛んでいかないよう願うばかりです。