フロ読 vol.14 城塚登『ヘーゲル』 再 講談社学術文庫
存在があって、それが自覚的であるかどうか。この考え方は面白い。前回の『大乗起信論』についてのなんやかんやが、再び本書へと私を呼び戻した。こううろうろしているから、なかなか一冊が読み通せないのだが、楽しいのだから仕方がない。私にとって書物の存在は多分に「即自的」だ。
ここでやっと「即自的・対自的に存在する実在」=絶対者=神の内容が見えて来た。なるほど「統一」が前提なのね。「1」が完成であると。
しかも、ヘーゲルというか西洋のすごいところは、上記のような抽象的概念が、当然のように学習の上で共有されると思っていること、それがmustだとするところだ。自立的な個人どうしが相互に自由な「自己意識」として承認しあう…それが当たり前になるべき…う~ん、やっぱりすごい発想。
人間は〈われ〉という個別性から逃れられない。それなのに〈われ〉は〈われわれ〉を構成する。このあいだを「精神」が媒介する。これを鍛える必要があると。〈われわれ〉は何となくくっついてちゃいけないし、空海のように10レベル設定して住み分けしてもダメ…なのかな?
なんか抜けてるなと思うのだが、やはりあれか。ここまで見て「縁起」と「お蔭様」の観点がないからかな。神に示現して欲しい時、それが日本人なら手を合わせてお願いをするだろう。しかし、父なる神は抽象的普遍性としてあるので、受肉して人の子と成る必要がある。さらにそれだけでは個別的現実性となってしまいそこに普遍性が不足するので、霊としてよみがえることで「即自的、対自的に存在する実在」となる…。
OK。これが三位一体ってことかな? 理論的にはすごいけど、普遍や絶対のご苦労様な一面が堪能できて、今日はちょっと食傷気味…。
今日は朧月夜。墨のような空に。